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「19歳の藤井聡太五冠」のスゴさを棋士目線で説明すると… 「終盤で強い体幹」と事実上の「香落ち指し込み」とは《王将戦》
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph byKyodo News
posted2022/02/16 11:00
19歳にして史上最年少の五冠を獲得した藤井聡太竜王
戦前の1935年に創設された名人戦は、毎日新聞社が主催していた。しかし、1949年に日本将棋連盟と毎日との契約金交渉が行き詰まった。連盟は棋士の生活改善のために3倍の契約金を要求したが、毎日の回答額はそれに満たなかった。新聞社も経営が苦しい時代だった。結局、交渉は折り合わず、契約は不成立となった。その後、名人戦の主催者は朝日新聞社に移った。
連盟と毎日の関係は悪化し、毎日の将棋欄は1年ほど空白となった。しかし、毎日は読者の強い希望を受け、プロ棋戦の復活を図ることにした。その条件として、前述の「指し込み三番手直り」という厳しい規定を要望した。連盟元会長の木村義雄名人は、毎日との関係を修復するために推進役を務めた。指し込みの危惧については、第一人者の自負で考えもしなかったという。
木村-升田の第1期王将戦で起きた「陣屋事件」とは
しかし、木村名人に升田八段が挑戦した1952年の第1期王将戦で、早くも現実のことになった。升田は木村を4勝1敗で破り、神奈川県秦野市の旅館「陣屋」で行われる第6局で、木村に対して香落ちで指すことになったのだ。前代未聞の事態だった。
その升田は第6局の前日に対局場に来たが、陣屋旅館の非礼を理由に近くの旅館に立てこもり、木村との対局を拒否したのだ。関係者が懸命に説得したが、升田の態度は変わらず、ついに不戦敗となった。これが将棋史に残る「陣屋事件」のあらましである。
升田は以前から朝日の嘱託という立場だった。朝日が主催した名人戦の価値が落ちることを懸念し、王将戦の指し込み制度には反対していた。対局拒否の背景には、そうした事情があったようだ。
なお、「陣屋事件」は曲折を経て穏便に決着した。その後、升田は陣屋旅館を訪れてわだかまりを解いた。そのときに揮毫した色紙の文言は「強がりが雪に転んで廻り見る」。
過去の王将戦七番勝負では、香落ちの対局が何局かあった。現在は「指し込み四番手直り」という規定に変わっているが、一方が4連勝しても「当面は香落ち戦を対局しないで終了する」ことになっている。
今期の王将戦の結果によって、両対局者にその意識はないだろうが、藤井が渡辺に対して香落ちに指し込んだことは制度上で残っている。
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