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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「杖が2本ないとつらい」“黒のカリスマ”蝶野正洋(58)が治療を行う現在を告白…“人前で杖は恥ずかしい”と思わなくなった深いワケ
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byKiichi Matsumoto
posted2021/12/31 11:12
プロレスラーとして、バラエティに啓蒙活動など様々なチャレンジを続ける蝶野正洋に、その原動力や現在の心境について聞いた
人気絶頂期には「もう体が限界でした」
ーーもしかして、またパワーボムですか?
蝶野 パワーボムだね。越中さんのパワーボムがまたしょっぱいんだよ(笑)。思いっきり上まで持ち上げて落とすから。それで大きく受け身を取ったんだけど首を痛めて。G1は痛み止めを打ちながら決勝のリック・ルード戦までやって。首を痛めたまま、9月にスティーブ・オースチンとの試合で、またドカーンとやっちゃったんだよ。
――そんな過酷な状況だったんですね。
蝶野 しかも、当時はNWA(世界ヘビー級)のベルトを持ってたんで、すぐにアメリカに行かなきゃならなくて。結局12月まで、半年近く首が痛くて夜も眠れないような状態で試合を続けてたんだよね。
――その後は、なんとか良くなったんですか?
蝶野 良くはなってないけど、だましだまし続けていて。次に’98年にnWo JAPANをやっていたとき、初めてIWGPヘビー級のベルトを巻いたんだけど。また日本とアメリカを行ったり来たりする生活が続いていたんで、疲労で首の痛みが再発して。試合中に受け身を取ったら足まで痺れちゃって。病院に行ったら頸椎ヘルニアがひどくて、「これはもう危ないぞ」って言われて、ベルト返上して、また4カ月くらい休むことになってね。
――nWo JAPAN総帥、IWGPヘビー級王者として、日米で大活躍していたときに、首が悲鳴を上げてしまった、と。
蝶野 当時はなかなか休みがないし、4大ドームツアーなんかがあったり、ビッグマッチがやたら多かったんですよ。それでオフにはアメリカのWCWにも出るっていうのが続いていたんで、もう体が限界でしたね。
芸能活動は自分のためではなく「プロレスのため」だった
――蝶野さんは、早くから芸能活動にも力を入れてましたけど、それは「長く現役は続けられない」というような思いもあったんですか?
蝶野 いや、芸能活動は自分のためというよりプロレスのためでしたね。nWo JAPANをやって業界のトップを張るようになったとき、「リングの外に出ないと、これ以上のネームバリューはつかないな」という思いがあったんですよ。自分らの時代、新日本のテレビ放送はゴールデンタイムじゃなかったから。
――東京ドームは何度も満員にしているけど、長州、藤波世代のようにゴールデンタイムで試合が放送されていない分、一般層への知名度が足りないと感じたわけですね。
蝶野 自分はそれを常に感じてましたね。だからプロレス以外の仕事をするのは面倒くさくてあまり好きじゃなかったんだけど、トップに立ってからはそうも言ってられないんで。とんねるずの番組に出たり、海外のロケなんかにも行ったりするようになって。そのあたりから芸能の必要性もわかってきたし、今につながる「救命救急」や「地域防災」の啓蒙活動なんかをやるときも、やっぱりネームバリューがないと人が集まらないので。それをやるためには、芸能活動も継続しておくことが必要になってくると。だから、いい意味での売名ですよね。