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M-1審査員9回目、上沼恵美子66歳が“引退した日”「結婚したらやめる…」中学2年で芸能界入りした“伝説”、上沼はどんな漫才師だった?
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph bySankei Shimbun
posted2021/12/19 11:04
上沼恵美子66歳、今年9回目のM-1審査員を務める。中学2年で芸能界入りした上沼はどんな漫才師だったのか?
漫才を演じるときの格好も、姉がツインテールの髪型にスカート、妹はショートカットにパンタロンと、いまどきの女の子らしいスタイルだった。それも珍しかったのだろう、当時の女性週刊誌の記事では、《女の漫才といえば、和服を着て三味線を持って顔のほうも三枚目半ぐらいがいいところ。/ところが海原千里・万里はいままでの女漫才とだいぶ違う。18歳と21歳と若いし、妹の千里はまだあどけなさがある童顔だが、ちょっとドレスアップして気取った顔をするとプロポーションもいいし、ピンキー(引用者注:歌手の今陽子の愛称)と甲乙をつけがたいほどの女の子》と紹介されている(『週刊女性』1974年3月2日号)。
もっとも、上沼自身はもともとお笑い芸人になるつもりはなく、いやでいやで仕方なかったとのちに明かしている。当時は女性芸人が珍しく、ほかの芸人に妬まれて楽屋に置いた私物が盗られることもしょっちゅうだったという。人気歌手のコンサートで前座を務めたときには、「おまえらに控室はない」とトイレで着替えさせられた。あまりの待遇差に悔しくて「何が何でも売れなアカン」と痛感する(『文藝春秋』2021年8月号)。
「結婚したら引退する」の2年後…
こうして苦労の末に売れたわけだが、それでも結婚したら引退すると公言していた。実際に、1977年5月に姉が結婚すると、わずか1カ月足らずで千里も関西テレビのディレクターと結婚、上沼姓となる。引退にあたっては大阪のサンケイホールでさよならリサイタルを開催し、大勢のファンが詰めかけた。
しかし、長男を出産後、1979年には本名の上沼恵美子として『2時のワイドショー』(読売テレビ・日本テレビ系)の司会で芸能界に復帰する。当時の雑誌記事では《私もまだ24歳ですから家にばかりいてもアホになるでしょ。いつも若々しくきれいでいたいし、主婦向けの番組ということで勉強にもなりますから…》とコメントしている(『週刊平凡』1979年4月26日号)。のちに明かしたところでは、復帰を決めたのは自由に使えるお金がほしかったのと、何よりタレントとして不完全燃焼だったからだという(『文藝春秋』2021年8月号)。
2度の紅白司会
復帰にあたり夫からは「僕の年収を超えるな」「女優はしてはいけない」「歌は出すな」などいくつも条件をつけられ、前出の番組にもあくまで一主婦としての出演だった。だが、1985年スタートのNHK大阪の『バラエティー生活笑百科』にレギュラー出演するようになったのを機に本格復帰する。同番組では「実家は大阪城」「琵琶湖は次男に生前贈与した」などの大ボラコメントなどがウケた。同時に民放にも進出し、毒舌トークで人気を集めると、収入は早々に夫を上回った。