草茂みベースボールの道白しBACK NUMBER
ビッグボス新庄が野村克也を「プロ野球のお父さん」と慕った理由…タイガース暗黒時代、“知将と宇宙人”が過ごした2年間を振り返る
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph byJIJI PRESS
posted2021/12/13 17:01
「プロ野球のお父さん」。ビッグボスは野村さんのことをこう呼んだ。野村と新庄がともに過ごした2年間に何があったのか――
脚本を野村が書き、新庄が演じたのが二刀流なら、敬遠球サヨナラ打は新庄自身が脚本を持ち込み、野村の承認の下に新庄が演じきった。
“敬遠球サヨナラ打”の真実
二刀流終了から3カ月後の6月12日。甲子園での巨人戦は同点のまま、延長12回を迎えた。サヨナラの好機に4番・新庄。巨人バッテリーは新庄敬遠を選択した。しかし、申告制の今とは違い、当時は4球投げなければならない。槙原寛己は大きく外すのが不得手な投手だった。中途半端な2球目を、踏み込んで振った。遊撃手は二塁ベースについており、打球はがら空きの三遊間を抜けていった。
壮麗なる伏線回収。その数日前にも新庄は敬遠されていた。新人時代から慕っていた柏原純一打撃コーチは、野村の愛弟子でもある。その柏原が現役時代に敬遠球をスタンドまでかっ飛ばしたことを知っていた新庄は「次は打ってもいいですか?」と尋ねている。柏原の答えは「打ってもいいが、勝手には打つな。ベンチを見ろ」だった。そこからの数日間、新庄は打撃練習で敬遠のようなボール球をリクエスト。その時に備えていたのだ。
新庄がベンチを見る。柏原が野村に聞く。GOサインが出た。槙原の敬遠が不安定なことを知っていたからだが、前掲書では野村さんは深く反省している。いわく槙原に「失礼なことをした」と……。
わずか2年の師弟関係。ただし、絆の太さは時間で決まるものでもないだろう。「どこで野球をやっても僕の打率は2割5分」と言っていたビッグボスだが、野村さんの下でプレーした00年は.278。28本塁打は、生涯最多である。それが配球を読んだ結果だとはとても思えないが、「お父さん」の存在が大きく影響しているのは間違いない。
2人が出会うほんの3年前には、“北風”の手法で自分を動かそうとしていた当時の監督に猛反発。「センスがないから野球を辞める」という引退騒動まで起こしていた。一方、野村監督は自分を否定せず、優しく包んでくれる“太陽”だった。「新庄剛志」を初めて解放してくれた、まさしく「お父さん」の愛だった。
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。