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「『負け馬ばかり宣伝する』とバカにされていた」1日8億売上げ…高知競馬を救った“ハルウララ旋風”の舞台裏
text by
緒方きしんKishin Ogata
photograph byフォトチェスナット
posted2021/11/06 11:04
廃止危機の高知競馬を救ったのは、負け続ける馬・ハルウララだった
「ハルウララを見出してくれたのも、橋口アナでした。内部でも『負け続ける馬を…』という葛藤はありましたが、私個人としては、何かはわからないけど『やらなければならないことなのかもしれない』という、根拠のない不思議な気持ちはありました。自分と重ね合わせている部分もあったのかもしれません」
ニュースリリースを40社に出したところ、ほとんどで破棄されたが、知人がデスクに掛け合ってくれたことで一社だけ掲載に。最初は地方版と聞いていたが、いつの間にか全国版の記事になっていた。新聞に掲載されるとTV番組から「ハルウララの写真が欲しい」と電話があり、全国ネットの情報番組で取り上げられる。そこから、ブームが広がっていった。
「全国区の知名度を得たハルウララに、各地から『ハルウララに励まされた』という温かい声が届くようになりました。病気の方や不登校の方、仕事がうまくいっていない方など、様々な方からのメッセージをいただきました。一方で、内部ではしばらくの間『負け馬ばかり宣伝する』とバカにされていたので、肩身が狭かったですね。『あいつはなにをやっているんだ』と言われることもありました」
予定がないのに「武豊騎手が乗ってくれたら面白い」
日を追うごとに取材陣は増えていく。時には馬房を勝手に撮られるなど、エスカレートした取材も出てくるようになった。管理する宗石調教師は当初そうした流れに難色を示していたが、高知競馬全体の雰囲気が変わってきているのを実感してからは毎週夜中に取材へ協力してくれるようになっていったという。
「私も下の子供が生まれたばかりの時期でしたが、家に帰れない日々が続きました。毎週の取材は、半年以上続きましたね。宗石調教師は何度もつらい思いをされたかと思います。ハルウララに対する関係者の扱いが大きく変化したことが、二度ありました。一つ目は100敗目の時、そして二つ目は武豊騎手が乗りに来てくれた時です」
人気が過熱していく一方で、ハルウララの単勝やグッズは売れるものの他のレースの売り上げはそれほど伸びないというジレンマも抱えていた。2003年12月に100敗目を喫した際、事務所に詰め掛けた報道陣が今度の戦略について問いかけたところ、管理者が「武豊騎手が乗ってくれたら面白い」と回答。すぐに、大きな反響があった。