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「(反日的な)応援をする集団がいて…」17年前、川口能活28歳が奇跡を起こした“ヨルダン戦PK”…宮本、俊輔らが語ったウラ側
posted2021/08/03 11:06
text by
阿部珠樹Tamaki Abe
photograph by
AFLO
「川口能活」がツイッターでトレンド入りした。東京五輪の男子サッカー準々決勝(7月31日)、日本代表対ニュージーランド代表戦。0-0のまま突入したPK戦(4-2)の末、準決勝進出を決めた。
奇しくも17年前の同じ7月31日、川口能活(当時28歳)はアジアカップの準々決勝ヨルダンとのPK戦で“神”と呼ばれた。あの中国での伝説の夜を当時の代表選手たちの証言で振り返る(全2回/前編へ)。【『Number』2004年12月23日発売号】
奇しくも17年前の同じ7月31日、川口能活(当時28歳)はアジアカップの準々決勝ヨルダンとのPK戦で“神”と呼ばれた。あの中国での伝説の夜を当時の代表選手たちの証言で振り返る(全2回/前編へ)。【『Number』2004年12月23日発売号】
三都主「思い切り吹かしちゃった」
「自分なりに、ねらいどころをしっかり決めろと言われました。それと、ボールがすごく軟らかいので、けっこう吹く(高く上がる)、下を蹴ったら上に行くよっていわれた。ボクのボールはそのとおり、思い切り吹かしちゃったけど」(三都主)
ジーコは自分の選手たちが、勝ち切るまで飛び上がったりしない連中であることを確信していた。2年間でそういうチームに作り上げてきたことを自負してもいただろう。
はじまる前に心構えに触れず、終わったあとにそれを語る。今日のような勝ち方を忘れるな。そして試合はまだつづく。アジアカップもあれば、ワールドカップ予選だってある。それを見据えろ。そういう気持ちをこめて、ジーコは「相手への敬意」について語ったのだ。心構えというよりも、勝つための具体的な戦術といえるかもしれない。ジーコの言葉には、「サッカーとは?」といった抽象論は一切なかった。
日本の2人目、三都主が失敗したあと、キャプテンの宮本が審判に抗議してエンドが変わった。この変更が勝負の分かれ目になったと多くの人が指摘する。宮本が変更を申し入れたのは、最初に蹴った中村、次の三都主が、ともに蹴る瞬間、大きく足を滑らせたからだ。
「ああいう状況でPK戦をつづけるのはフェアじゃない、FIFAはフェアプレーを奨励しているんだから、とにかくフェアにやってくれといいました」(宮本)
しかし、これは、必ずしもチームの総意を汲んだ申し入れではなかった。ベンチのジーコから具体的な指示が出ていたわけでもない。