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日本柔道史に残る“24分間の死闘” 涙の敗者・丸山城志郎27歳が語った「東京五輪を失って、世界一を獲った半年間」
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byAFLO
posted2021/07/20 17:04
昨年12月13日の東京オリンピック代表決定戦。阿部一二三(右)に敗れた丸山城志郎
「妻から結果を出してと言われたことはありません。一度もないです、でも僕自身が伝えたいのは、やっぱり結果なんです。僕にはそれしかない。オリンピックの金メダルというのは、柔道人生において自分で掲げた目標ですから……」
父はバルセロナオリンピックで入賞した柔道家であり、物心ついたときから道着と畳の匂いのなかで育ってきた。
この道以外に道はなし――丸山の眼差しに意志が宿るようになったのは、それからだった。
糸を紡ぐように、少しずつ心の穴を埋めていく日々のなかで、丸山は「強さ」という言葉を口にするようになった。
「まずはシンプルに体の強さという意味でした。自分の良さはスピードや技に入る勘だと、周りの人からは言っていただくんですが、そこに相手をねじ伏せるパワーがついたらもっと強くなれるんじゃないかと考えたんです」
「あの試合の映像をはじめて見たんです」
丸山は強さを求めて、再起戦となる世界選手権に向かった。
ブダペストに入ってからも稽古は続いた。練習場とホテルを往復するなか、開幕が近づくにつれて不安が募ってきた。自分の身体は思い通りに動いてくれるだろうか。あれほど大きな敗戦のあとに、新たな一歩を踏み出すことができるだろうか。
試合前夜のことだった。丸山は自分でも思いがけない行動にでた。
「あの試合の映像をはじめて見たんです。そういえばあの試合、俺はどういう動きをしていたんだろうと考えて、自分から見ようと思ったんです……」
ホテルの部屋でひとりタブレットを開いた。ずっと目を向けることができなかったあの試合を直視した。
「阿部選手と戦っている自分を見ているんですけど、頭の中では世界選手権で外国人選手と戦っている自分を見ている感覚でした。こう動いたらこう来るとイメージしながら……。だから見ることができたんだと思います。そうでなければ、なかなか見ようとは思わなかったかもしれません……」
画面には美しい柔道を貫こうとする自分がいた。静まり返った講道館の大道場で阿部と組み合った瞬間から、24分過ぎに大内刈りによって敗れるシーンまで、丸山は最初から最後まであの日の自分から目を逸らさなかった。
「悔いがあるわけではないんです。自分のスタイルを貫いて、あの試合のためにやってきたことはすべて出せました。でも……それが正解だったかどうかはいまだにわかりません。ただこの先は変化していかないといけない。勝負に対する強さ、どういう状況でも我慢できる強さが必要なんだろうなと思いました」
世界ランキング1位を破る
ブダペストのアリーナはクライマックスを迎えていた。