日本サッカー未解明問題ファイル「キリスト教と神のこと」BACK NUMBER
「かわいい後輩」を守ったガーナ戦の吉田麻也に見る、欧州サッカーでの「自己主張とわがまま」の境界線って?
text by
吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki
photograph byKiichi Matsumoto/JMPA
posted2021/06/16 17:03
日本代表キャプテンとして強いキャプテンシーを見せる吉田麻也
話の続きを記しても、やはり難解だ。日本の感覚からするとお互いキレるよりも、落ち着いて話したほうが「成長」に見える。教育学博士の佐藤淑子氏が2001年に記した「イギリスのいい子 日本のいい子 ――自己主張とがまんの教育学」にはこう記されている。
「自己主張は日本の対人関係においてはタブー視されてきた。自己主張する人間は自己中心的であるとか、周囲との強調に対する配慮が足りないと考えられてきた」
日本でアマチュアプレーヤーが草サッカーやフットサルをやっていても、「主張」には大いに悩むところではないか。言った方がいいのか、黙っておいたほうがいいのか。雰囲気というものを考えてしまう。
欧州でもダメだった「強い主張」って?
欧州キリスト教社会では「主張」と「わがまま」の線引きがしっかりと共有されているからこそ、「強い主張」が上手く使いこなされている。
そのラインはどこにあるのか。
逆の事例から考えてみよう。90年代以降、欧州で”バツ”とみなされた「強い主張」にはこういった点がある。
1995年1月25日、イングランドプレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッド-クリスタルパレス戦で、エリック・カントナがスタンドにいた相手サポーターに蹴りを入れた。いわゆる「カンフーキック」。これには出場停止9ヶ月の厳しい罰が課された。
2014年W杯でのルイス・スアレス(ウルグアイ)の「耳噛み事件」は出場停止4カ月。
2017年のヨーロッパリーグで自軍サポーターを蹴ってしまったパトリス・エブラの行為。これは出場停止7ヶ月だった。
暴力なのだから当たり前。確かにそうだ。しかし、その話だけで終わってしまうのはもったいない。
ある明確な基準がある。
パブリックの利益に即したものか、否か。
ごく平たくいうと、「みんなのためになること」なら、怒りながらの主張もOK。そういうことでもある。個人の自由もある。ただし、そこから外れると徹底的に罰を受ける。