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箱根駅伝大ブレーキから3年「さすがに精神的に辛かった」 元駒大エース・工藤有生が振り返る“泣き崩れたあの日”
posted2021/05/12 11:02
text by
佐藤俊Shun Sato
photograph by
Yuki Suenaga
工藤有生が現役を引退――。それは彼を知る人はもちろん、陸上ファンにとっては衝撃的なニュースだった。
駒澤大学時代は1年の時から箱根駅伝を走り、大学のトップランナーに成長。大学4年時には、駅伝主将を務めた。だが、大学ラストランとなった箱根駅伝7区で左足に異変が起き、失速。懸命に襷をつなげようと蛇行を繰り返しながらも足を止めない工藤の姿を覚えている人も多いだろう。
卒業後はコニカミノルタで実業団選手として足の治療をしながら再起を図ってきたが、入社してわずか3年で「引退」という大きな決断を下した。将来を嘱望されたランナーに、いったい何が起きていたのか。駒大時代とコニカミノルタでの“空白の3年間”を追った(全2回の1回目/#2に続く)。
◆◆◆
「都大路未出場」から名門・駒澤大学へ
「駒大から話が来たのは、進路を決めるギリギリのタイミングでした」
工藤は、少し苦笑しながら、駒大入学当時を振り返った。
駅伝の強豪校である広島・世羅高校で陸上を続けていたが、当時はまだ芽が出ず、インターハイ、都大路など全国大会には縁がなかった。他大学からスカウティングの話は来ていたが、「もう決めないと」という時期に飛び込んできたのが、駒大だった。
「もう即決しました(笑)。駒大を選んだのは、常に駅伝大会で優勝争いしているような厳しいところに行きたいなって思っていたから。実力を考えても大変だなとは思っていましたけど、不安はなかったです。長距離には自信がありましたし、やれば強くなる、やるしかないだろうと」
強い気持ちで駒大での挑戦を決めたが、入学前、新入生だけで走る5000mのタイムは、13名の内で後半の順位。さっそく厳しい現実と自分のポジションを思い知らされた。当時のチームには、4年生に中村匠吾、村山謙太らトップランナーがおり、一学年上には中谷圭佑らが名を連ねていた。個々のレベルが非常に高く、練習についていけないことも多かったという。
「最初の頃は、強度の高い練習で離れてしまう事が多かったんですけど、距離走を丁寧にやることで徐々についていけるようになりました」
当時の駒大の練習メニューは、毎朝12、3キロ、それから月曜は砧公園を走り、水曜はポイント練習、土曜は26キロの距離走。それ以外の火木金は80分ジョグだったという。月間にして約800キロ前後。大学の陸上部としては練習量が多い方だろう。
こうした厳しい練習を丁寧にこなしていた工藤が、自分の走りに手ごたえを感じ始めたのは、1年の夏合宿だった。
「夏合宿は、3週間あって1週間ごとにテーマがあるんです。1週目は野尻湖で『足を鍛える』。2週目は志賀高原で『心肺を鍛える』で、3週目が野尻湖で『気持ちと根性を鍛える』という感じでした。最後の野尻湖で30キロの距離走をするんですけど、そこで余裕を持って走れた時に、駒大に来て初めて、強くなったなあって感じましたね。中村さんや村山さんとも一緒に練習ができるようになっていましたから」
声掛けも『元気か』から『もっとやれるぞ!』に
本人の実感だけではない。この頃から、大八木監督の視線や言葉にも変化を感じた。