才色健美な挑戦者たちBACK NUMBER
アーティスティックスイミング・青木愛がオリンピック出場を機に23歳という若さで引退を決めた理由
posted2020/11/18 11:00
text by
林田順子Junko Hayashida
photograph by
Shigeki Yamamoto
来年開催の東京オリンピックから競技名がアーティスティックスイミングに変更となったシンクロナイズドスイミング(以下シンクロ)。1996年のアトランタオリンピックでチーム種目が採用されてから、初めて同種目でメダルを落としたのが、2008年の北京大会だった。
この時チーム最年少として出場していた青木愛は、この大会を機に、23歳の若さで引退した。なぜ引退を決めたのか、改めて自身のアスリート人生を振り返る。
シンクロって本当に練習時間が長いんです。特に日本代表は、朝8時にプールに飛び込んだら、ウエイトトレーニングをしたり、陸の上で角度やカウントに合わせる“ランドリル”という練習をしたりして、全部終わるのが夜の11時半。
なんで毎日こんなしんどいことやってるんだろうって、練習は本当に嫌いでした。でも、シンクロを始めた時からの夢だった、オリンピックに出るという目標のためなら、辛い練習も乗り越えることができました。
とはいえ、高校生の時に本当にシンクロをやめたいと思って、離れた時期がありました。まあ、離れたというより、サボっていたという感じなんですけど(笑)。
当時、デュエット種目でもオリンピックに出場していた武田美保さんが近所に住んでいたんです。武田さんのお母様とうちの母は仲が良くて、この時、色々と相談をしたみたいなんです。
尊敬する憧れの先輩のお母さんが……
そうしたらある日突然、練習をサボってだらだらしていた私の部屋に、武田さんのお母さんが「入るでー」って、いきなりズカズカ上がって来て(笑)。
そこで「美保もこういう時代があったよ。嫌なこともたくさんあると思うけど、そこで諦めるんじゃない。美保も辛いことがあったけど、乗り越えたからこそ、今ああやってオリンピックに出て、メダルも取れているんだよ」ということを直々に話してくださって。
尊敬する憧れの先輩のお母さんが、わざわざ家に来るなんて、想像もできなくて。それまで母に何を言われても一切響かなかったんですけど(笑)、武田さんのお母さんに言われた言葉はすごく心に響きましたね。
そのころ、担当のコーチも毎日「明日はおいでや」とか「今日は何してたん?」って電話をくださって。サボっていたことを怒られるのが怖くて、その恐怖心にずっと負けていたんですけど、皆さんのおかげで、練習に復帰することができました。この時に、やっぱり自分が一番輝けるのは、シンクロをやっている時だなと思ったし、やっぱりオリンピックに出たい、自分が決めたことを途中で辞めたくないという思いが強くなりました。