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ロンドン五輪に学ぶ。あのサラーも
抑えた、徳永悠平「いつもどおり」。
posted2020/06/01 11:30
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph by
FIFA via Getty Images,Asami Enomoto(in the article)
あの夏、日本サッカーは最も“アステカ”に近づいた。
2012年、ロンドンオリンピック。関塚隆監督率いるU-23日本代表は組織性を発揮する守備から相手を切り裂く速攻を武器に、低評価を覆してグループリーグ初戦でスペインを破った勢いのまま決勝トーナメントに進出した。
1968年メキシコオリンピックの銅メダル以来、44年ぶりとなるメダルに王手を掛けたものの、準決勝でメキシコに屈し、3位決定戦でもライバルの韓国に敗北。「健闘したけど、メダルを掴み損ねたチーム」として評価は微妙なところがあった。
彼らは持てる力をすべて出し切った。出場チームで唯一、全会場を回って中2日で試合をこなし、一致団結して大会を乗り切った。
ここに着目し、再評価することによって東京オリンピックでメダルを獲得するカギが見えてくるのではないだろうか。その思いから徳永悠平、清武弘嗣、そして関塚の3者にあらためて話を聞くことにした。
OAの打診を断る考えもあった。
第1回はオーバーエイジ(OA)で呼ばれ、アテネオリンピック以来2度目の出場となった徳永。彼は当初、OAの打診を断る考えもあったという。
2月中旬、V・ファーレン長崎がトレーニング拠点を置く諫早市のなごみグラウンドは活気に満ちていた。全員一緒に素走りをするときも、いかなるときも徳永は先頭に立ってやろうとする。36歳になってもその姿勢は変わらない。FC東京でも、代表でも、ここ長崎でも。
ロンドンオリンピックから8年近く経つが、風貌も変わらない。そんな軽い前振りのあと、OAに呼ばれる経緯から彼は話をしてくれた。
「A代表の活動のときに原(博実)さん(当時、日本協会の技術委員長)から事前に『お前を呼びたいそうだ』と言われて、関さんと一度、ホテルで会いました。そこで『本当に自分でいいんですか?』と聞いたんです」
何よりの名誉だということは分かっている。ましてや関塚は早稲田大学ア式蹴球部の大先輩。しかしながら、『自分でいいんですか?』は己に向けた声でもあった。