オリンピック4位という人生BACK NUMBER
<オリンピック4位という人生(8)>
アトランタ五輪「思い出す曲がり角」
text by

鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byAFLO
posted2020/04/05 09:00

陸上5000mで4位となった志水見千子。リクルートの同僚・有森裕子は同じ日、マラソンで銅メダルを獲得していた。
あのカーブのことを考えている。
あの1996年7月28日もそうだった。夕刻に5000mの決勝が待っていたあの朝、ベッドから起きだすと、もうあの人はテレビ画面の中を走っていた。
過酷な夏のアトランタ。まだ30kmを過ぎたばかりなのにあの人はスパートした。あとの10kmをどうするかなんてまるで考えていないかのように突っ走った。
スタジアムに入ってからは前のにばんより、後ろに迫るよんばんを何度も何度も振り返り、もう追いつかれない、自分がさんばんだと確信したところでようやく白い歯を見せ、ありったけを出し尽くした証であるびっしょり濡れた黒髪を輝かせていた。
ああ、この人はやっぱりちゃんとメダルをとって帰るんだな。もし私に順位がなかったらまずいよな。頑張らないとな。歯みがきをしながら夕刻のレースに向けて私が考えたのはそういうことだった。
いつもあの人が刺激だったのはたしかだ。ただ同時にたしかなのは、あの人と私は違うということだ。
とにかく選手にマラソンを走らせたい監督がまだ走れとも言っていないのにあの人は走った。「マラソンをやらないか?」と言われ続けても私は走らなかった。ひしめくようにメダルを求めてランナーが名乗りをあげるマラソンにあまり魅力を感じなかった。それより競技者が減りつつあるトラックで自分を極めていたかった。私は自分のレースを走り切れればそれでよかった。あの人とはまるで違うランナーなのだ。
ただ、そんな私がなぜかあのカーブのことを考えている。走りきったはずのレースの中に後悔の欠片(かけら)を探している。
シドニーではとにかく“さんばん”に。
やめます。アトランタの後、そう告げると所属先の部長さんは言ってくれた。
「1年くらい休んで様子を見たらどうだ? 今までと同じ登りかたでなくてもいいから、もう一度、あの山を登ってみないか?」
アトランタでたどりついたはずのゴールは、4年後のシドニーまで伸びた。
ならば今度はじゅんばんを頭に入れて走ろう。あの一瞬がまたやってきたら今度こそ躊躇することなく前にいる者を視界から退けてしまおう。あと先のことはどうでもいい。とにかく“さんばん”に入るのだ。それがあのとてつもなく苦しい15分に、もう一度、耐える動機になるはずだ。それがオリンピックだ。そうした執着さえ身につければ、あの5m、あの1秒は埋められる。
ただ実際にはシドニーでオリンピックがはじまる前に私はすでにスパートしてしまっていた。不安を解消するために走り、また不安に襲われては走った。ピークはレースの7日ほど前にやってきた。
ランナーの足は生きもので、上がりきればやがて下がる。だからやっとスタートラインについたとき、その脚にはもうアトランタのときのようにウズウズと爆発しそうなエンジンは残っていなかった。
予選1組でじゅうばんだった。
決勝レースを迎えることなく、オリンピックは終わった。あのカーブの一瞬はどこを探しても見当たらなかった。
今度こそ、やめます。止める人はもういない。リクルート陸上部が休部になった2001年9月、私は走るのをやめた。同時にランナーとして生きることもやめた。