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<オリンピック4位という人生(2)>
メキシコ五輪「室伏が追った鉄人」 

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鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

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photograph byPHOTO KISHIMOTO

posted2020/01/19 11:40

<オリンピック4位という人生(2)>メキシコ五輪「室伏が追った鉄人」<Number Web> photograph by PHOTO KISHIMOTO

3大会目の五輪出場で、選手団の団長も務めたハンマー投げの菅原武男。

室伏重信を救った菅原の投てき。

 リッカーミシンの職場で知り合った妻は夫が見ている世界がどんなものか、何を求めているのかがずっとわからなかった。

 結婚当初、練習を終えて帰宅した菅原はいつも鼻血を出していた。

「何度も回転するので、遠心力で毛細血管が切れるんでしょうね。手も血で固まって箸を持てないのでスプーンで食事をしていました。家でも暇さえあれば何かをイメージしながら体を回転させている。私は競技に詳しくないので、夫が何をそこまで追求しているのかがわかりませんでした」

 物質的なものを求めているわけではない。だから余計にわからない。菅原はその後も4大会連続となるミュンヘン五輪に挑み(20位)、現役を終えると所属先のリッカー陸上部監督となり、何かを追い求めていた。周囲からすればメダルなきオリンピアンが欲しているものは見えにくかった。

 そんな中、菅原が頭の中に描いているものを凝視している男がひとりいた。

 室伏重信。

 7歳下の日大の後輩でありライバルであり戦友だった。菅原より恵まれた体躯を持ち、より多くのハンマーを投げてきたと自負する男はしかし東京、メキシコと五輪の代表になれなかった。もう競技を諦めようというほど悩んでいた彼を救ったのは、メキシコの空に放った菅原の投てきだった。

 1968年のあの日、室伏はテレビ中継画面にビデオを向けて撮影し、それを部屋のカーテンに映した。かろうじて見える4回転のフォームと自分の3回転とを比べてみた。朝から晩までそうしていたという。

 そこから道が開けた。菅原のあとの日本記録保持者となり、五輪の舞台を踏んだ。

「菅原さんの真似はできませんでした」

 菅原もそんな室伏をじっと見守っていた。

「室伏とは大学のグラウンドで一緒に練習したし、ヨーロッパ遠征で朝まで語り合ったこともあった。でも彼も僕に何も聞いてこないし、真似もしない。見て盗んで、自分だけのものをつくり上げるしかないんです。それぞれが持っているもの、それぞれの理想があるんです」

 時が経ち、時代が変わり、菅原が指導者を退き、髪に白いものが目立ち始めた2004年、室伏広治という4回転の投てき者がギリシャのスタジアムに立っていた。

 菅原はこの大会の前、重信の息子・広治と交わしたあるひと言によって、彼が世界のトップになると確信したという。

「ジュニア(広治)がね、僕にこう言ったんです。『菅原さんの真似はできませんでした』って。僕はそれを聞いて、ああ、僕以上の、何か素晴らしいものをこの男は手に入れたんだって、そう思いました」

 サークルの中に他者と重なることのない自分だけの世界を持っているか。菅原と室伏親子をつなぐものである。

 82m91。アテネの空に描かれた放物線を菅原は東京・羽村の自宅で見た。画面には日本の同競技史上初となるメダルも映し出されていたが、菅原の目が向けられたのはやはり形のないものだった。

「フィニッシュでね、僕からすれば開きが早いんです。最後のスタンスの幅をもう少し狭めて、ハンマーを残すようにしてやればもっとものすごい記録、世界記録が出る可能性があると思ったんです」

 アテネの夜を遡ればメキシコの空につながる。それを知ってか知らずか、菅原は相変わらずあくなき可能性を見ていた。

【次ページ】 「見るだけ。遠くから見るだけ」

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