プロレス写真記者の眼BACK NUMBER
白覆面の魔王の必殺技「4の字固め」。
ザ・デストロイヤーが残したもの。
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2019/11/19 11:40
1993年7月28日、引退試合の1日前、馬場との最後の戦いを終えたデストロイヤー。互いに満身の笑みを浮かべて抱き合った。
幻となってしまった力道山との決着試合。
デストロイヤーはその後、同年12月に力道山が保持していたインターナショナル選手権に2度連続で挑戦したが、1敗1分だった。暴漢に刺された力道山が12月15日に急死したため、デストロイヤーvs.力道山はこれで納めになってしまった。
力道山の保持していたインターナショナル王座は一時封印されたため、後を継いだ形の豊登はデストロイヤーとWWA王座を争うことになった。
日本プロレスがジャイアント馬場の時代になっても、デストロイヤーは来日を続けた。第13回ワールドリーグ戦ではアントニオ猪木を4の字で場外に道連れにして、馬場を優勝に導いたこともあった。
馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、デストロイヤーは馬場のリングを選んだ。
当時のタッグマッチは「日本組vs.外人組」というのが一般的だったが、デストロイヤーは馬場との友情の名のもとに、日本組に入って馬場らとタッグを組んだ。これは画期的な出来事だった。
和田アキ子、徳光和夫との縁。
その後のデストロイヤーは、“ゴッド姉ちゃん”こと和田アキ子のテレビ番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』に出演し、お笑いの才能まで開花。結局番組レギュラーとして出演し続けさらに人気者となった。
この番組では、その白覆面にヘルメットを被った短パン姿が印象的だった。
徳光和夫アナがマイクを持ったまま4の字をかけられて悲鳴をあげた。局アナだった徳光はあまりの痛さに「やめろ、この野郎」と絶叫したことで、「それ以来ニュースを読ませてもらえなかった」と語った。プロレスで64%、お笑いでも40%の視聴率。今ふうに言えばデストロイヤーはテレビ・カルチャーのアイコンだった。
名曲『あの鐘を鳴らすのはあなた』が流れる追悼セレモニーのリングにあがった和田アキ子は、写真のデストロイヤーとその家族に語り掛けた。
息子のカート・ベイヤーによるとデストロイヤーはこの歌が好きでアクロンの自宅でよく口ずさんでいたという。和田が2008年にニューヨークのアポロ・シアターでアジア人として初めて公演したときには「デスが来てくれた」という。