ファイターズ広報、記す。BACK NUMBER
日本ハムに小笠原道大が戻ってくる。
再会した広報が思い出した威圧感。
text by
高山通史Michifumi Takayama
photograph byKyodo News
posted2019/10/15 19:00
10日の会見で栗山英樹監督(左)と握手する小笠原道大新ヘッド兼打撃コーチコーチ。14年ぶりとなる復帰で「恩返し」を誓う。
3年間でたった1回のお願い。
突出して心身ともにタフで、そして温かくて優しい人だった。
2006年のことである。担当記者3年目を迎えた、沖縄・名護での春季キャンプ。いつも通りの行程で「小笠原さん」は、居残り練習をしていた。3月に第1回ワールド・ベースボール・クラシックが控えており、調整ペースは例年よりも急ピッチだった。
球団関係者室で「小笠原さん」は、一息入れていた。パイプ椅子にどっかりと腰掛けていた。その一室の前を通った時、ふいに呼びとめられた。日本代表に合流するため、チームを離れる前日だったと記憶している。今となっては邪推だが、取材姿勢などに対して注意を受けるのではと、身構えて入室した。
確か、こんな内容だった。
「明日から日本代表でキャンプを離れるけれど、よろしく頼む」
その言葉の意味を計りかねていると、こう続けたのである。
「若い選手たちの記事を、しっかり書いてくれ。それが励みになるから」
拍子抜けしながらも、懐の深さを感じた。接したのは3年間だったが、直々に用命されたのは、この1度だけだった。担当記者として、選手との向き合い方が変化するスパイスにもなった。
トングを離さない小笠原さん。
巨人へとフリーエージェント権を行使して移籍することになった2006年オフには、担当記者10人以上が招かれ、お別れの懇親会を開いてもらった。都内の焼肉店が会場。トングは「小笠原さん」が離さなかった。絶妙な焼き加減ですべての部位を差配し、私を含めた担当記者たちへと取り分けてくれた。
初めて、ざっくばらんに会話をした。プライベートや、家族のことなど、オープンに明かしていた。飾らない人柄、手厚いもてなしに感動したことは、今も心に刻まれている。
25年ぶりにパ・リーグを制覇して44年ぶりに日本一を成し遂げたのが2006年。翌年からファイターズのユニホームを脱ぎ、長い野球人生の旅に出て、帰還することになった。