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元帝京高10番のマラドーナ芸人が、
マラドーナ本人に会いに行ってみた。
text by
池田鉄平Teppei Ikeda
photograph byCONNECT
posted2019/06/23 11:30
マラドーナ(右)本人と出会った、ディエゴ・加藤・マラドーナ。メイクしきれなかったのが惜しい!
矢野、田中達也らに取り残され。
高校2年生のときは怪我に苦しみ、集大成となるはずの高校3年生時には、副キャプテンとして10番を背負うはずだったが、思わぬハプニングに見舞われる。
別の高校から帝京高へ編入していた関係で、冬の選手権準々決勝の時点で3年間の登録期限がオーバーになり、出場ができないと告げられた。
そんな加藤の無念さを代弁するかのように、高校サッカー選手権の2回戦で、帝京の矢野隼人選手がFKを決めた時、加藤の10番のユニフォームを下に着ていたシーンが新聞にも掲載された。さまざまな壁にぶつかってきた高校サッカー人生は、唐突に終わりを迎えた。
高校卒業後もプロを目指すために順天堂大へ進学するも芽が出ず、一般企業に就職。当時関東リーグ所属だったY.S.C.C.横浜(現J3)でプレーして高円宮杯に出場したこともあったが、Jリーガーになることはできなかった。
高校の同級生には「和製ロナウド」と呼ばれた矢野隼人(元ヴェルディ川崎など)、1学年下の後輩には「和製オルテガ」こと田中達也(アルビレックス新潟)がいた。「和製マラドーナ」の加藤だけが、ひとり取り残されてしまったのだ。
憲剛が「超似てます!」と絶賛。
高校から大学、社会人へと時間が流れていくなかで加藤の人生は大きく様変わりしていく。
「あまりサッカーとは関わらないようにしていた」という25歳のとき、テレビで見たお笑い芸人のエピソードに感銘を受け、自分もその道に進むことを決めた。当時はネタ番組が流行り、世間はいわゆる「お笑いブーム」の真っ只中だった。
芸人になった当初、養成スクールのネタ見せでマラドーナのモノマネ芸を披露した。
「その時の出演者の中で、一番滑ったのではないかと思います」
お笑い好きのお客さんに全くウケなかった。
舞台衣装でもあった憧れの選手のユニフォームは、しばらくタンスの奥に消えることになった。芸人の道でもいきなり壁にぶつかったが、しばらくの空白期間を経て、マラドーナの姿で再び表舞台に立つ日が訪れる。
「その3年後ですかね。スキマスイッチの常田真太郎さんが率いるフットサルチーム、SWERVESの活動に呼んでいただいた時です。常田さんに『何か芸はないの?』と聞かれて、マラドーナのネタを見せたら『絶対やった方がいい』と言ってくれました。
セレッソ大阪の前座試合で披露する機会もいただいて、そこではマラドーナのネタがウケたんですよ。人生で一番ウケましたね(笑)。スタジアム中が笑いに包まれたような感覚は今でも忘れられません」
スタジアムで披露した影響力は大きく、川崎フロンターレの中村憲剛から「超似てます!」とお墨つきをもらった。かけ違えてばかりだったボタンが、ようやくハマった瞬間だった。