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元帝京高10番のマラドーナ芸人が、
マラドーナ本人に会いに行ってみた。
posted2019/06/23 11:30
text by
池田鉄平Teppei Ikeda
photograph by
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夢の数だけ、空がある。黄昏れながら見上げたメキシコの空は、綺麗な水色に輝いていた。心臓が口から飛び出しそうな高揚を抑えて、長年の思いを告白した。
「マラドーナに『(モノマネを)やり続けてもいいですか?』と聞いたら『もちろん』と言ってくださったんです。いわば公認というか、やることを認めてくれたので自信になりました。さらに堂々と“ディエゴ・加藤・マラドーナ”をやっていこうと思っています。
今まで10年やってきましたけど、正直いつまでディエゴ・加藤・マラドーナでやるんだろうって思った時もあったんです。『40歳とか50歳になっても、やってんのか?』って。でも今なら『60歳でもやってくぜ』と強く思えるようになりました」
ディエゴ・マラドーナ。アルゼンチンの英雄にして、誰もが知る史上最高のサッカープレーヤーの1人だ。元日本代表の中村俊輔(ジュビロ磐田)、小野伸二(コンサドーレ札幌)がそうであったように、あの華麗な左足に魅了されたかつてのサッカー少年は無数にいるだろう。
これも、そんなスーパースターに憧れた男の物語だ。芸人、ディエゴ・加藤・マラドーナ(以下、加藤)。
東京の名門・帝京高で背番号10を背負った「元・和製マラドーナ」は、様々な挫折を経験した紆余曲折の人生の中で、ひとつの大きな夢を実現させたのだった――。
サッカーエリートがお笑いの道へ。
加藤の経歴は一見すると、まさにサッカーエリートのそれだ。
横浜マリノス(現横浜F・マリノス)のジュニアユースに所属し、帝京高ではエースナンバー「10」を背負った。1998年、高校選手権の歴史に残る伝説の一戦、帝京と東福岡の“雪の決勝”では、出場こそなかったが1年生にしてベンチ入りを果たしていた。
しかし、加藤のサッカー人生はボタンの掛け違いの連続だった。少しのすれ違いで、歯車が狂い、違う人生を歩んでしまった。