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有森裕子と高橋尚子。小出義雄監督が
支えた平成女子マラソン栄光の時代。
posted2019/04/29 08:00
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph by
AFLO
有森裕子さんと、高橋尚子さん。
現在発売中のNumber977号の取材のため、2人に自身が出場したオリンピックについて話を聞いたのは4月中旬のことだった。
話は自然と恩師である小出義雄監督のことに及び、2人はそれぞれに思い出話を語ってくれた。有森さんは、いっぱいケンカもしたと言い、高橋さんは、たくさんの感謝の思いを口にした。
あの時はまだ、こんなにも早く監督が逝くとは思ってもいなかったのだろう。2人の話しぶりに悲壮感はなかった。
小出義雄さんが高校の教師を辞め、リクルートの陸上部監督に就いたのは1988年のこと。有森さんはその第2期生に当たる。
有森さんが自らを売り込み、陸上部への入部を許されたのはよく知られたエピソードだ。監督はその熱意に応え、代名詞とも言える「褒めて育てる」指導で教え子の才能を伸ばした。
'92年のバルセロナ・オリンピックで有森さんは女子マラソン初の五輪銀メダルを獲得する。じつはそれが初めての海外レースだった、と有森さんは明かした。
決して潤沢とは言えない資金を言い訳にせず、手間暇と工夫を惜しまない。それが小出監督の真骨頂であったのだろう。
有森さんは96年のアトランタ・オリンピックで2大会連続のメダルを獲得。それを置き土産に、監督のもとを離れた。
「最後は楽しんで終わる練習」
入れ替わるように頭角を現したのが高橋さん。高橋さんもまた、自らを売り込んでリクルートの門を叩いていた。
どれだけの練習を課しても、それを笑顔でこなしていく高橋さんを見て、監督の指導にもさらに熱がこもった。平日は40km、週末は80km、土曜は朝食の前に50km走ることが日課だったという。
なぜそれほどの練習に耐えることができたのか。高橋さんの答えは明快だった。
「どんなに苦しい練習でも、最後は楽しんで終わる。そうすれば気持ちが追い詰められることはないじゃないですか。だから練習後も探検ランといって、自分が知らない道を走るんです。知らない風景を走るのは楽しいし、道に迷っても距離が稼げる。そうやって私は強くなっていったんです」