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松坂大輔が“勝てる投手”である理由。
小倉元部長に育まれた横浜高の遺伝子。
posted2018/05/10 08:00
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph by
Kyodo News
あの松坂大輔を「オレが育てた」と言い切る男がいる。小倉清一郎(きよいちろう)。
高校野球ファンならもちろん、そうではない人も写真を見れば「ああ、この人か」と思うのではないだろうか。恰幅のよい体格に、よく日に焼けた顔とメガネの奥の鋭い眼光。横浜高野球部の部長、コーチなどを歴任し、高校球界最高の参謀とも渡辺元智との2人監督制ともいわれている。
その小倉氏にこんな話を聞いたことがある。
「大輔は(高校進学時に)30、40校くらいから誘いはあったはずだよ。でも、一番熱心なのが私だった。絶対にほしかった。何でって、大輔は背筋が強かったんだよ。背筋が強い投手は腕が振れるから」
「大輔しか投手がいないんだもん」
すでにその名を知られていた松坂を口説き落とせば、他の有望選手への勧誘もよりスムーズにいく。そんな狙いもあっただろうが、小倉氏は松坂の素材に惚れ抜いていた。
めでたく恋人の心を射止めた小倉氏は、入学後には鬼へと変貌する。
「そりゃ練習をやらせましたよ。やらせているこっちがかわいそうになるくらいにね。だって大輔1人しか(投手が)いないんだもん。夏を投げ切らせなきゃいけない。いやいやだったと思いますよ。『なんで僕だけこんなにやんなきゃいけないんですか』って言ってきたこともあります。だから私はこう言ってやったんだ。『おまえのことが好きだからだよ』ってね」
全国屈指の激戦区、神奈川はもちろん甲子園でも投げきる。それが全国制覇への戦略だった。事実、伝説となっているPL学園との準々決勝では250球で完投した。翌日の準決勝ではさすがに先発は回避したが、2番手投手は明徳義塾に打ち込まれている。
あの年の横浜高は、松坂のワンマンチームとまでは言わないが、少なくとも投手に関しては「松坂依存」のチームだった。
「プロに入ってみて、小倉さんのノックがいかにうまかったかってことがよくわかりました。捕れるか捕れないか、ぎりぎりのところに打つのが本当にうまいんです」
今だから笑って話す松坂だが、当時は憎しみを抱いたことも一度や二度ではないだろう。中でも下半身強化を兼ねて行うアメリカンノックが小倉氏の十八番だった。