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元日本代表・狩野美雪とデフバレー。
指揮官として得た金メダルの意義。
posted2017/08/13 07:00
text by
米虫紀子Noriko Yonemushi
photograph by
Japan Deaf Sports Federation
「もちろん嬉しかったんですけど、『あー終わっちゃったなー』という寂しさもちょっとありました」
重責を果たし終えた狩野美雪監督は言った。
7月18日から30日までトルコで開催された聴覚障害者の国際スポーツ大会、デフリンピックで、狩野監督率いるバレーボールの女子日本代表が金メダルを獲得した。
「選手たちがすごく集中してくれて、全試合、セットを落とさず勝つことができたので、あまりにできすぎで、一生分の運を使い果たしたんじゃないかと思ったぐらいです(笑)。選手たちが喜んでいる姿を見て、『あーよかったね、日本に帰れるね。ちゃんと結果を残せたね』という思いでした」
狩野監督は選手時代、Vリーグの茂原や久光製薬で長年活躍し、デンマークリーグでもプレーした。Vリーグでサーブレシーブ賞を獲得したこともある安定感のある守備と巧みな攻撃を買われて全日本にも選出され、2008年北京五輪に出場した。2012年ロンドン五輪代表で、現在はPFUに所属する狩野舞子の姉でもある。
2011年の現役引退後、当時の監督に声をかけられ……。
狩野美雪は2011年に現役を引退したあと、デフバレーボール女子日本代表の今井起之監督から、「手伝ってほしい」と声をかけられた。今井監督は東京学芸大学時代のバレー部の後輩だった。チームは2013年デフリンピックでの金メダル獲得を目指していたが、当時、今井監督は末期がんを患っていた。
狩野が初めてデフバレーチームの練習に参加したのは2011年7月2日だった。入院していた今井監督に「一緒に合宿に来て。外出許可をとるから」と誘われたが、実際には外出許可が出るような状態ではなく、狩野は1人で合宿に参加し、練習後に「終わったよ」と電話で話した。その翌日の明け方、今井監督は息を引き取った。まだ33歳だった。
狩野があとを引き継ぐことを決断するまでには3カ月あまりを要した。結婚したばかりということもあり、辞退も考えた。
「でも、今井君のお母さんに、『起之が、狩野さんがやってくれると言っていたので、お願いしますね』というふうに言われて、あれ? もしかして今井君にはめられたんじゃないかな、なんて思いましたよ」と狩野は苦笑する。