オリンピックへの道BACK NUMBER
さわやかなそよ風のようなスケート。
「すべて出し尽くした」浅田真央の21年。
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byShigeki Yamamoto
posted2017/04/14 11:40
会見場は、かけつけたメディアでごった返していた。それでも、浅田真央は穏やかな笑みを湛えて会見に臨んだ。
常に、より高くにある自分を目指そうとしてきた。
「技ができるようになったときは本当に楽しい気持ちになりました。次は2回転、3回転を跳びたいと」
と振り返る「小さな頃」を皮切りに、常に、より高くにある自分を目指そうとしてきた。
バンクーバー五輪で「(フリーで)トリプルアクセルを2つ跳ぶ」というオリンピックでは誰も成し遂げていない目標を掲げ、それを達成したのもその1つだ。
その後には、さらに大きなチャレンジへと向かった。当時、すでに感じ取っていたジャンプの修正の必要から、大会ののち、佐藤信夫コーチに指導を仰ぐ。そこで行なわれたのは徹底した改革だった。佐藤コーチはこう例えている。
「右手ではさみを使っている人が左手で同じように使うようになること」
選手として一定以上のキャリアを、つまりは技術も築いている。それを壊して作るような作業がいかに困難であるか。
大会での成績は、だからすぐにはついてこなかった。
浅田の最も大きな長所は「努力」だった。
この方向性で合っているのか、浅田も迷うこともあった。それでも貫いたことが、ソチ五輪のフリーへとつながっている。
より高いレベルを、新しい目標を、しかも困難がある中であっても目指す姿勢は、競技生活において一貫していた。
浅田をトップスケーターたらしめたのは、容易に真似ることのできない努力だった。
20歳を超えてなお、1日に、長い部は2時間弱、短い部は1時間となる「5部練習」を実行することもあった。しかもソチ五輪シーズンののちに休養するまで、キャリアに空白を生まずに継続してきた。
技術はもちろんのこと、スケーティング、表現、あらゆる面での向上を目指す意志の強さがそこにあった。
そんな日々こそ、困難を乗り越える原動力でもあった。
ソチ五輪のショートプログラムのあと、今後も忘れられることのないフリーの鮮やかな演技を見せることができたのもそうだ。