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引退発表してからも素振りを続けた男。
サブローがロッテに残した猛練習の誇り。

posted2016/09/26 12:00

 
引退発表してからも素振りを続けた男。サブローがロッテに残した猛練習の誇り。<Number Web> photograph by NIKKAN SPORTS

引退試合となった9月25日のオリックス戦。QVCマリンフィールドで、紙テープの中、ゆっくり球場を一周して歩いたサブロー。

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永田遼太郎

永田遼太郎Ryotaro Nagata

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NIKKAN SPORTS

 引退試合を翌日に控えた2016年9月24日。

 サブローは、この半年間通いつめたロッテ浦和球場の室内練習場にいた。

 9月1日の引退会見以降も、いつもと変わらぬ時間に球場へ来て、いつもと変わらないようにバットを振る。

 その姿を見てきた二軍打撃コーチの大村巌は、次のように語った。

「今年1年間、彼はずっとファームで過ごしてきましたけど、決して腐ることもなく、『いつかチャンスを』、『いつかチームのために自分がなる』と、その日が来るのをずっと信じて黙々とやっていましたよね。本当に若手の鑑ですよ。だから僕も『サブローを見てみい』と若手に言えたしね。40歳の人間がこんなにも精神的に苦しい状況の中でもこれだけやっているんだから、それがどれだけきついことなのか考えてみろってね。40歳になった今でもサブローは『まだまだ自分を向上させたい探求心』というのかな、逆に(40歳になった)今だから出来ることもあるって考えを持ってね、プロに入ってからの22年間、続けてきたわけですから本当に素晴らしいことだと思います」

 その言葉はまるで、サブローの気持ちを代弁するかのようだった。

イチローにあやかってつけられた“サブロー”。

 サブローがプロに入団した1995年は、ボビー・バレンタインが初めて日本にやって来て千葉ロッテの指揮をとった年でもあり、この1年は大村巌にとっても特別な1年だった。

「彼が入団した1995年は阪神・淡路大震災の年でもあり、ボビーが最初に指揮をとった年でした。僕もちょうど一軍で使われ始めたときだったので記憶に強く残っています。当時から(サブローとは)いつも一緒に行動していましたし、そう思うと長かったですよね。野球の話はもちろん、試合が終わってからも付き合いがあったし、彼は本当にロッテが好きで、それは彼がベテランになった今でも変わらなかった。僕は弟がいないけど、そんな彼を僕は弟みたいに見ていましたよね」

 サブローの本名は大村三郎。サブローという登録名は前年度に球界初のシーズン200本安打を達成したオリックス時代のイチローにあやかるのと、当時一軍で頭角を現し始めた大村巌と同姓であることから、区別するために付いた。

「これで(サブローの引退で)現役選手に大村がいなくなりましたね。でも、JAPANにサブローが呼ばれたときは『大村が日の丸を付けている』って僕も嬉しい気持ちになりましたよ。『そのユニフォームを俺にくれ』と言ったら嫌だって断られましたけどね(笑)。僕自身も彼から勉強させてもらいましたし、ロッテの看板選手として20年以上も頑張って、1362本(取材後にもう一本打って最終成績は1363本)もヒットを打って、本当によくやりましたよ」と、大村はサブローとの思い出をしみじみと語った。

【次ページ】 40歳になっても「ホームランが打ちたいです」。

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