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マンセル電撃引退から24年――。
マッサの会見にウイリアムズの情が。
posted2016/09/11 07:00
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph by
Getty Images
どんなに素晴らしいドライバーでも、必ずいつか現役を引退するときが来る。しかし、そのタイミングを自分で決められるドライバーはほとんどいない。
ほかのスポーツでも華やかに自分が歩んできた道に幕を降ろすことができるのは、ごくわずか。多額のスポンサーマネーが動くF1の世界では、なおさら難しい。シーズンが終了後のシート争いに敗れた末に、静かにこの世界を後にするというドライバーがほとんどである。
その中でも、もっともドライバーに厳しいと言われたチームが、ウイリアムズだった。1996年に初の親子チャンピオンに輝いたデーモン・ヒルがチームを追われるようにして去ったかと思えば、そのチームメートだったジャック・ビルヌーブもタイトルを獲得した翌年にチームを去った。
その2人以上に衝撃的だったのは、'92年のナイジェル・マンセルの電撃引退である。
“セナ・プロ”にプライドを傷つけられたマンセル。
当時、マンセルはアラン・プロスト、ネルソン・ピケ、アイルトン・セナというスーパースターたちと並ぶ四天王と呼ばれていたが、ほかの3人がタイトルを複数回獲得していたのに対して、'91年まで無冠だった。'92年はウイリアムズとの結んでいた契約の最終年だった。そのラストチャンスで、マンセルの才能はウイリアムズが製作したハイテクマシンとともに一気に開花し、念願のタイトルを獲得した。
苦節12年の末につかんだチャンピオンの座だったが、逆にチームとの翌年の契約交渉はもつれ始めさせていく。理由は'92年に休養していたプロストが'93年にウイリアムズから復帰しようとしていたからである。さらにセナが「ウイリアムズなら無給でもいいから乗りたい」と発言すると、チームは契約金の値引き交渉を開始。チャンピオンとしてのプライドを傷つけられたマンセルはチームの制止を振り切って、自分自身で記者会見を開いて、F1からの引退を発表したのである。