Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
<リオ・パラリンピック期待の25歳>
山田拓朗「パラ・アスリートの矜持を見せる」
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byTakashi Shimizu
posted2016/07/28 11:00
「明らかに特別な雰囲気を感じました」
それぞれの大会ごとに、課題と収穫を得てきた。
「明らかにほかの大会と何か違う、特別だという雰囲気を感じました」と振り返る。経験を重ねる中で、パラリンピックで輝きたいという強い意欲が芽生えた。世界ランキングから見れば十分メダルを狙える位置にいた北京では、「いい記録で泳いだと思うけれどそれでも届かないのかと思いました」と勝つことの難しさを知った。
その悔しさをばねに、もう一段成長したい、環境を変えたいと筑波大学に進学。
「練習量であったり一緒に泳ぐ選手のレベルが上がる中、適応するのが難しかった。がむしゃらにやっても伸びないと知ったり、なかなか記録が出なかった」
辛うじて代表入りを果たしたロンドンでは逆に順位が上がり、「次へ向けて頑張ろうと思えました」。そして昨年の世界選手権では自由形50mで銀メダルを獲得した。
階段を上がるように一歩一歩進んできた。それは並大抵のことではない。世界のレベルが上がり結果を残すことがシビアになる中でのことだからだ。例えば50mの優勝タイムが、アテネからロンドンで実に1秒24も上がっているのが象徴する。
もともとはオリンピック出場をめざしていた。
山田の足取りを支えるのは、世界で勝ちたいという意識である。しかも第一線で10年以上戦ってきた経験を踏まえた上で培った意識だ。ただの憧れや願望からではない。本気で勝ちたいからこそ、どうしたら速くなれるか、試行錯誤を続けてきた。クロールのバランスをどう取るかをはじめ、自分なりに答えを導き出してきた。
「一般的な水泳の技術はありますが、そのまま自分にあてはまるわけではありません。自分なりに変えていきます。頭で思い描いてもできない動きもあります。日々のトレーニングの中で、映像で観て、確認しながらいいものをみつけていく感じです」
高い意識と厳しい姿勢は、小学生からの環境によって育まれてもいる。
山田は小学3年生のとき、通っているスイミングクラブの選手コースへと変わった。楽しく泳ぐクラスから、試合をめざすクラスへと移行したのである。健常者と同じ練習をこなし、切磋琢磨した。そこには、オリンピックに出たいと思う子ども達がいた。
「小さい頃、パラリンピックでメダルを獲りたいという思いはありましたが、オリンピックを目標としているみんなと遜色のない泳ぎをしていたので、僕もオリンピック出場をめざしていました。パラリンピックに13歳で出たのは、上をめざす中でのひとつのステップという感覚でした」