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無名高から専門学校を経て初勝利。
西武・宮田和希の「長かった」道程。
posted2015/06/02 10:40
text by
氏原英明Hideaki Ujihara
photograph by
NIKKAN SPORTS
つくづく人生とは分からないものだ。
入団7年目、西武ライオンズの左腕・宮田和希が5月31日に初勝利を挙げた。
専門学校出身の彼がプロで勝利を挙げるなど、誰も想像していなかったに違いない。ヒーローインタビューでの「長かったです」というコメントには、実感がこもっていた。
思い返すのは、宮田の福泉高時代のことだ。
'06年夏の大阪府予選。同年はPL学園にエースで4番の前田健太(現・広島)がおり、大阪桐蔭には2年生スラッガー中田翔(現・日本ハム)、そして、公立の星として注目されていたのが後にヤクルト入りする城東工のエース・山田弘喜だった。自身の投げるスライダーを「ダイナマイトスライダー」と命名し、にわかに話題になっていた。
そんな中、部員数がそう多くはなかった福泉高のエースだった宮田は、高3夏の初戦で城東工業と対戦。結果は0-7の8回コールド負け。それも、相手エースの山田に参考記録ながら完全試合を達成されるという惨憺たる内容。さらにこの試合の最後は、宮田のボークにより7点目が入って決着が着くというものだった。
「チームメイトのみんなが一生懸命頑張っていたのに、最後は自分のボークで終わらせてしまって。みんなには申し訳なかった」
野球推薦はなく、受験での進学を考えていた。
そんな宮田がプロ入りする上で、2人大きな役割を果たした人物がいる。
1人目は、1回戦負けの宮田に声を掛けた甲賀健康医療専門学校の指揮官・藤本政男だ。
「左で体もあるし、ボールを離す瞬間に力を集中することができる。フォームに癖がなく、これだけ腕が振れる左投手はそういない」
野球推薦はなく、勉強して普通に大学へ進学することを視野に入れていた宮田だったが、藤本に誘われたことで進路を決めた。
「この学校の存在すら知らなかったんですけど、パンフレットを見せてもらって、施設も充実しているし、野球に専念できる環境と思って決めました。監督からは、もっと頑張ればいい投手になれる、と言われました」