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アメリカGPで起きたボイコット騒動。
いまF1に求められる“自戒”とは。
posted2014/11/09 10:40
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph by
Getty Images
1986年。イタリアGPが開催されていたモンツァで、あるミーティングが開かれた。それはエンジンのレギュレーションに関する会合だった。当時、ホンダのターボパワーがF1界を席巻し始めており、ライバル陣営が横槍を入れたのである。
ホンダにも彼らなりの考えがあったが、話し合う間もなく会合は終了。ターボエンジンは'88年限りで禁止するという根回しが、ホンダ以外のチームの間でできていたからである。根回しをしたのは、当時FIA会長を務めていたジャン=マリー・バレストルだった。
ホンダを代表して会合に臨んでいた桜井淑敏は、そのやり方に納得がいかず食い下がったものの、バレストルは聞く耳を持たなかった。そればかりか「F1にイエローはいらない」と屈辱的な言葉を浴びせたのである。
怒りが収まらなかった桜井は、当時F1コンストラクターズ協会(FOCA)の会長を務めていたバーニー・エクレストンに相談するが、「ホンダの気持ちもわかるが、弱小チームのことも考えてほしい」と言われ、渋々引き下がった。
撤退を主張するエンジニアに、本田宗一郎が一言。
世界一の技術でF1を制覇しようという希望とプライドを踏みにじられたホンダのエンジニアたちは、F1からの撤退を決意。桜井と、当時F1のラージプロジェクトリーダーとしてターボエンジンの開発をしていた市田勝已が、研究所を代表して創業者の本田宗一郎の元を訪れ、こう言った。
「こんな変更は技術者として受け入れらない。もう、F1から撤退しましょう」
すると宗一郎は、2人にこんな質問した。
「ターボ禁止という変更はホンダだけか?」
2人がそれを否定すると、宗一郎は「じゃ、やれよ。そこで勝ってこそ、本当にホンダの強さが認められるんじゃないのか」と言って、2人の要求を突っぱねたという。そして、その3年後の'89年、自然吸気エンジンでの新たな戦いにもホンダは勝利するのである。