詳説日本野球研究BACK NUMBER
マー君のメジャー移籍へ至る、
プロ野球過去10年の“実態”。
text by
小関順二Junji Koseki
photograph byNaoya Sanuki
posted2014/01/10 10:41
日本シリーズを制した楽天。試合後のお立ち台では、星野監督が珍しく超満員のスタンドに「春から来てよ」と冗談を飛ばしたが、パ・リーグの観客動員は右肩上がりだ。
ゼロからのスタートで、日本一に輝いた楽天。
新設球団のために分配ドラフトがオリックスとの間で行われ47人の元オリックス、元近鉄選手を迎え入れたが、オリックスに25人の優先保有(プロテクト)が認められたため、楽天にはほとんど二線級の選手しか集まらなかった。'05年に楽天でプレーした中で現在も現役として頑張っているのは次の選手たちだ。
投手……岩隈久志、小山伸一郎
野手……藤井彰人、牧田明久、坂克彦、中島俊哉
現在も現役の後藤光尊、坂口智隆、谷佳知、日高剛、平野恵一(以上野手)、香月良太、近藤一樹(以上投手)などオリックスメンバーとくらべると、岩隈以外はかなりスケールダウンする顔ぶれである。しかし、ここから9年後、相変わらず下位を低迷するオリックスを尻目に楽天は球団創設後、初のリーグ優勝、日本一に輝く。ゼロからのスタートでも工夫と情熱があればトップに立てることを楽天は見事に立証したのだ。
補強と育成の二本柱で復活した巨人。
楽天とともにこの10年間で最も変貌を遂げたのが巨人だろう。1リーグ制を画策した当該球団として球界内外から非難の目を向けられ、再編騒動後の'04年以降、3位→5位→4位と優勝から遠ざかり、'04年から2年間采配を振るった堀内恒夫監督は2リーグ制以降の巨人監督としては、唯一人優勝できないままユニフォームを脱いだ。
それが、原辰徳が2期目の監督に就いた'06年以降、リーグ優勝5回、日本一2回と強さを取り戻す。その要因になったのがFA戦略に育成を絡ませたチーム作りである。
長嶋茂雄が2期目の監督に就任した'93年から'05年までの13年間、巨人は圧倒的な資金力を背景に他球団の主力選手を獲りまくったが、リーグ優勝ですら2年続いたことは1回もない。それが原辰徳が第2期政権に就いた'06年以降、チーム作りの根幹を補強と育成の二本柱に据えると('07~'09年の3連覇('07年はCSで中日に敗退)、'12~'13年の2連覇へとつながっていく。
ドラフトはこの10年間、「○○球団へ行きたい」という事前の意思表示が禁じられたが、'09年長野久義(Honda)、'10年澤村拓一(中央大)、'12年菅野智之(東海大)が実質的な事前の意思表示で他球団の指名を押さえ込み、巨人への入団を果たした。このあたりのやり方は卑怯と言えば卑怯だが、戦略と言えば戦略と言えなくもない。
'04年以前はセ・パの人気格差が著しく「○○以外なら社会人へ行く」という逆指名が流行した。しかし、セ・パの人気格差が狭まるのと同時に、「○○へ行きたい」という意思表示が幼稚なエゴイズムと映るようになった。
'07年には希望枠が廃止され、'08年には分離ドラフト(高校生ドラフトと大学生・社会人ドラフトを別に行っていた)が統一ドラフトに改められている。そういう流れの中でも巨人入りに執着した長野、澤村、菅野は若干の皮肉を込めて言わせてもらえば、今どき珍しい純情な青年だったということだろう。