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坂本勇人 「ネオGの肖像」 ~新生巨人、救世主の履歴書~ 

text by

高川武将

高川武将Takeyuki Takagawa

PROFILE

photograph byNaoya Sanuki

posted2009/07/28 11:31

坂本勇人 「ネオGの肖像」 ~新生巨人、救世主の履歴書~<Number Web> photograph by Naoya Sanuki

田中将大の存在が「左利きの右投げ右打ち」を生んだ。

 校庭の片隅には、赤、青、黄の鬼の絵が描かれた巨大なブロック壁が聳(そび)え立っている。兵庫県伊丹市山田、閑静な住宅街の一角に昆陽里(こやのさと)小学校のグラウンドはある。坂本は4歳のときから、少年野球チーム「昆陽里タイガース」に所属していた6歳上の兄にくっついてここに来ていた。まだ幼く、練習に参加できない少年の相手は、この鬼の壁だった。

「毎日飽きもせず壁当てをしていましたね。最初は左投げだったんです。5歳になった頃ですね、急に右で投げ始めて……」

 山崎三孝監督は、笑って振り返る。

 当初は同じ左利きの父のグラブを使っていたが、大人用はあまりにも大きい。兄がグラブを新調したとき、母が兄のお古を弟に与えた。「チームに入ったら新しいのを買うてやるから」。兄は右利きだったが、母は気にもかけなかった。数日後、「そや、勇人は左やった!」と母が気づいても後の祭り。大好きな兄のお下がりを貰えたことが嬉しくて仕方ない坂本は、嬉々として壁当てに夢中になり、兄と同様の右投げ右打ちになった。

 小学校入学と同時にチームに入った坂本は、逆手とは思えないほど肩も強く、ボールをミートする技術も抜群だった。ポジションは遊撃、3番を任されるようになる。だが、左利きの右打ちは、山崎にはもったいなく映った。

「もし、強い高校で野球をやりたいのなら左でも打てる方が得やで。その代わり、人の倍バット振らなアカンぞ」

 4年生のとき、スイッチへの転向を勧めたのは指導者として当然のことだろう。坂本も左打ちを器用にこなした。ところが、6年生になった頃である。

「右打ち一本でやらせてください」

 坂本は必死の形相で山崎に申し出た。

「諦めたんか?」

 そう言うと首を横に振る。訳を聞くと、全く坂本らしい理由。山崎も折れるしかなかった。

「田中に負けたくない……」

 その頃、彼らは打撃練習でホームラン競争をするようになっていた。レフト側にある校舎の2階にまで打球をブチ当てていたのが、同級生で4番を打っていた田中将大(現楽天)だった。左で流し打っても、なかなか校舎までは届かない。打撃練習は10本と決まっている。ならば、右一本で打ちたい、となったのだ。

「坂本はとにかく負けず嫌いで、目立ちたがり屋。何でも自分が一番にならないと気が済まないから、面白くなかったんでしょう」

「寡黙な努力家」田中と、「ヤンチャな天才肌」坂本。

「ヤンチャな天才肌」の坂本に対して、半年遅れで入部した田中は「寡黙な努力家」だった。対照的な二人は、6年時に、投手・坂本、捕手・田中でバッテリーを組んだこともある。

「飛距離では田中に分がありましたが、野球センスは遥かに坂本のほうが上でした。野球が大好きで練習を休んだことはない。ただ、能力が高いだけに、手を抜くんです。雑な送球をしたり、三遊間の深い当たりを追わなかったり……。言えばできるんですけど、それが続かない。6年生では自ら主将もやっていたので、よう怒りました。すると、もうやめる! と泣いて帰ってしまうことも何度かありましたね。自分が上手いのがわかってるから、やめると言えば、監督が困ると思ってる(笑)。でも、そこに胡座(あぐら)をかかれたら天狗になるので、だいぶ厳しく接しましたね」

 いずれにしろ、負けず嫌いで目立ちたがり屋の少年はこうして右打ち一本になった。

<次ページへ続く>

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田中将大
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