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「オン・ザ・ボーダー」 

text by

竹澤哲

竹澤哲Satoshi Takezawa

PROFILE

posted2004/07/15 23:46

 今振り返れば、2002年6月18日、雨中のトルコ戦でのフリーキックが、その後の彷徨の出発点だったように思えてくる。曲線を描いてクロスバーを叩くまでのボールの軌跡は、まるでコマ送りのように鮮明に、記憶に残っている。

 言わずもがなのことではある。だが、あのボールがあと3cm落ちていたなら、その後のアレックスの選手生活は大きく変わっていたのでは、とつい夢想せずにはいられない。決まりかけていたプレミアリーグ、チャールトンへの移籍が流れてしまい、傷心のうちに帰国。それでも気丈に振る舞っていた彼の姿が今でも心に焼き付いているのだ。

 アレックスが、初めて代表の青いユニフォームに袖を通した時から3年の月日が経とうとしている。いつも彼は、最後尾からピッチに現れ、タッチラインを越える際、十字を切るのを忘れない。一番端に整列し、目をつぶり、手を胸に当て君が代を歌う「三都主アレサンドロ」の姿も、最近ではすっかりと見慣れた感がある。

 一方で、あのトルコ戦以降のアレックスは、どこか迷っているようにも見え、その姿は足取りの覚束ないジーコジャパンと重なる部分もないではなかった。代表の試合に何度か足を運びながらもゆっくりと彼の話をきく機会もないままだった。アレックスの現在の胸中を知りたくなって、浦和レッズのクラブハウスを訪れた。

 ジーコ監督は就任当初、アレックスを生かすポジションを決めかねていた。初采配となった― '02年10月のジャマイカ戦では、招集されたものの最後まで出番は回ってこなかった。また― '03年4月の韓国戦では海外組不在のため、先発出場するが、後半からフォワードとして試されている。彼の立場は、あくまでも中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一で構成する「黄金の中盤」の控え、もしくはスーパーサブ的な存在にすぎなかった。

「やはり試合に出たかったですね。中盤の4人に、なんとか割って入りたかった。何度か出るチャンスは巡ってきたけど、僕はもともとサイドに開く傾向があったので、サイドバックのスペースを消してしまったり、逆に僕がサイドを走ろうと思っても、自分の前にスペースがなくて足下でしかボールを受けることができなかったりで、納得のいくプレーはできなかった。韓国戦の時も左の中盤で使ってもらったんですけど、結局ディフェンスラインまで下がって守備をしていましたね」

 トゥルシエ時代、左MFとして起用されていたときは、フラットな3バックに並び、いわば5バックのような形をとることも多かった。その影響からか、どうしても守備への意識が先に立ってしまうようだった。

 一方で、就任当初こそ迷ったものの、アレックスをサイドバックで使うという発想は、比較的早い時期にジーコの中で固まっていたらしく、練習では控え組の左サイドバックとして試される機会が多くなってきた。

 '03年6月8日、日本は親善試合のアルゼンチン戦で1-4の大敗を喫し、この試合がアレックスにとってのひとつの転機となる。そのわずか3日後のパラグアイ戦で左サイドバックとして初めてピッチに立つのである。

「びっくりですよね。まさか4人がそっくり入れ換わるとは思ってもいなかった。でも試合に出られるのが一番だし、ジーコから、『こいつはだめだ』と思われたら最後だから精一杯やったんです。結局あの試合で負けなかったことが大きかったんでしょうね」

 代表で試合に出られるのなら、どんなポジションであれ受け入れる。それはけっしてネガティブなものではなく、与えられたチャンスを最大限に活かそうとするトゥルシエ時代から変わらぬアレックスの姿勢だった。パラグアイ戦のわずか1週間後には公式戦であるコンフェデ杯に再びディフェンダーとして臨んでいる。強豪フランスやコロンビアを相手にアレックスは守備に徹したのだ。

 「ディフェンダーになって寂しかったときもありました。攻撃と守備の練習を分かれてやることになって、気がついたら自分は守備の練習にいるじゃないですか。あれちょっとちがうな、なんてね。それでも攻撃ができなかったら守備ができればいいんだと割り切っていましたね。どちらもできなかったらおしまいだから」

 とはいえ、慣れないDFというポジションで結果をださねばならない、という状況は彼にとって容易なものではなかった。さらに所属するクラブ、エスパルスではキャプテンという重責も担ったことで徐々にコンディションを落としていく。キャプテンでありながらスタメンから外されたことさえあった。この時期のことをアレックスは「最近は体が重たかったし、ドリブルだとかスピードのあるプレーができない」と自身のホームページに綴っている。

「それまでは、疲れていても疲れていないと言ってがんばってきた。でも代表とクラブの試合とが続いたので、移動も多く、時差にも苦しんだりして、実際にはかなり疲れがたまっていたんです。リラックスする余裕もなく、それで自分のプレーができなくなって、いらいらしていた。コンフェデの時はまだよかったんですけど、夏以降の代表の試合にはあきらかに影響していましたね。自信がどんどんとなくなっていったんです」

 その年の秋に行われたセネガル戦、ルーマニア戦、カメルーン戦ではアレックスはほとんど自陣にこもったままで、前線へ顔を出すのは数えるほどだった。― 

「一番大切なのはポジショニングですよね。あとはカバーリングさえしっかりやっていれば、前に行ける。でもポジショニングが悪いと、特に相手が速い選手の場合は裏をとられて、それでこちらのリズムも悪くなってしまう。自然と守備に気を配らなければいけなくなるんです。僕に期待されているのは攻撃前線への飛び出し、オーバーラップ、1対1での勝負を積極的にしかけ、センタリングを上げるということはよくわかってました。攻撃ができないのなら、守備に強い別の選手を入れればよいのだということになってしまいますよね」

 アレックス自身の葛藤とは別に、代表チームには微妙な溝が生じつつあった。いわゆる「海外組」と「国内組」の問題である。ジーコは国内組で合宿をしながらも、試合はあくまで海外組中心のメンバーで戦った。アレックスはそんな中、スタメンとして出場していた数少ない国内組の一人だった。だが同時に、試合に出られない仲間たちの気持ちも痛いほど感じていた。

「やっぱり誰だって試合に出たいじゃないですか。海外組といっても試合に出ていない選手もいる。一方で、海外の厳しい環境の中でがんばっているわけですから、ジーコがそこを評価するのもよくわかる。でも海外組が2,3日だけ一緒に練習して試合に出ても、コンビネーションをとるのは実際むずかしい」

 チームのまとめ役である中田英寿は、試合直前にチームに合流し、「チームに緊張感がない」といった苦言を呈することも少なくなかった。アレックスは、中田がチームのためを思って言っていることは、十分わかりながらも、この点に関しては異を唱えた。

「ヒデのようにはっきりと言うのはチームにとっていいことだし、誰かが言わなければいけないことでしょう。でも緊張感がない、というのはちょっと違うと思う。合宿でみんながんばっていないわけじゃない。何日も前から試合をめざして汗を流している。その上で試合直前のゲームはリラックスしてやっているので、当然笑いもでるでしょう」

 W杯アジア1次予選、対オマーン戦でアレックスが中田に対して見せた態度は、以前のアレックスには考えられなかったものだ。オマーンを相手に予想外の大苦戦を強いられ0対0のまま、残り時間5分を切ろうとしていた時のことだった。オマーンの選手が負傷して倒れたのを見て中田はプレーを中断させるためにボールを外に蹴り出した。するとアレックスは「なんで外に出すんだ」と両手を大きく上げて抗議したのである。アレックスは早く得点をしなければいけないと焦っていたし、時間稼ぎでわざと倒れている相手選手に気を遣うこともないと考えた。一方で中田とすれば、サッカー選手としてごく当たり前の行動をとったにすぎない。中田は怒るアレックスに対して、逆に「なんで怒るんだよ」と、はげしい口調で言い返している。

「2人ともまったく違う考えだった。あのときはかなり強い調子で言い合いましたね。でも2人ともワールドカップに行きたいという気持ちは一緒なんだから、いいことなんじゃないですか」

(以下、Number606号へ)

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