#1056
巻頭特集

記事を
ブックマークする

「原点は思い出したくない高校時代に」永田裕治が語る報徳学園で“全員野球”の信条が生まれた理由は?「えらいことやってもうた、と青ざめて…」【甲子園の名将】

2025/08/22
報徳学園3年時に全国制覇を成し遂げた名将は、「誇れる実績なんてまったくない。ついていっただけ」という。しかし、その経験が彼が信条とする全員野球へとつながった。58歳となった今も衰えることのない情熱。その源流を探る。(初出:Number1056号 [“全員野球”の萌芽]報徳学園・永田裕治「ロマンと現実の狭間に揺れて」)

「高校時代のことはあまり思い出したくないなぁ」

 永田裕治はそう言うと視線を落とし、頭をかいた。永田は1981年夏の甲子園を制した報徳学園の優勝メンバーである。その言葉だけで真意を推し量ることは難しかった。名門で昭和ど真ん中の高校野球を経験したとなれば、苛烈な体罰や上下関係に悩まされたということか。だが、永田は「そんなんちゃうんです」とかぶりを振り、こう続けた。

「たいした選手じゃないから思い出したくないんです。誇れる実績なんてまったくない。ただ、みんなについていっただけで」

 夏がくれば、高校野球ファンは甲子園の名シーンを思い出す。1981年夏の甲子園なら、永田の同級生であり優勝投手の報徳学園・金村義明が無邪気にジャンプするシーンが象徴的だ。だが、ライトや代打で出場した永田を覚えている人間はほとんどいないだろう。永田はおどけて「一般ピーポーですから」と自嘲した。

 甲子園での永田の記憶も極めて断片的だ。3回戦では荒木大輔を擁する早稲田実に終盤まで4点差と劣勢を強いられるも、大逆転勝利。快進撃へ弾みをつけた。だが、代打で凡打に終わった永田の口から出るのは「荒木の球は手元で伸びていました」という短い感想のみ。金村ら主力選手が負けた時のために海水浴に行く計画を練っていたことも、永田は知らなかった。

「試合中、リードされて『キツいな』なんて考えたこともありません。視野が狭くて、冷静でいられない。ただひたすら、ベンチで声を出しているだけでした」

特製トートバッグ付き!

「雑誌+年額プラン」にご加入いただくと、全員にNumber特製トートバッグをプレゼント。
※送付はお申し込み翌月の中旬を予定しています

photograph by Hiromi Ishii

0

0

0

この連載の記事を読む

もっと見る
関連
記事