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なぜ平良海馬は石垣島の“たった7人の野球部”からライオンズのエースになれたのか?「15分ぐらい泣きながら話をして…」《本人と八重山商工・恩師らの証言》
アフロヘアのように生い茂る深緑の木が校舎のわきにたたずんでいた。背は高くない。それなのに遠目でも幹は逞しく、両腕で抱えられないほどの太さがありそうだ。
「あの木はね、私が監督になったときからずっとあるんじゃないかな。あれだけ根が生えていたら、台風でも倒れないでしょう」
そう話すのは沖縄の石垣島出身で八重山商工の監督を務めてきた伊志嶺吉盛である。
近くで見るとガジュマルの木だった。幹は、幹ではなかった。空気中の水分を求めて幹から根が生え出し、大地に十重二十重の足を下ろしているのだ。伊志嶺が同校の監督に初めて就いたのが1978年だから、樹齢は少なくとも50年ほど。風雨にさらされてもすっくと立ち、校庭のグラウンドで白球を追う球児を見守ってきた。
「昔はここにタイヤや丸太が20個ほどあったんです。いまの海馬の下半身の粘り強さは、丸太を抱いてタイヤを引っぱる練習で形作られたんじゃないかな」
伊志嶺は剛腕投手の大嶺祐太(元ロッテなど)を擁し、2006年に同校を春夏連続で甲子園に導いた。それから9年後の春に入学してきたのが平良海馬である。
タイヤを押したり引いたり、ライトとレフトのポール間を20回も往復する練習を、伊志嶺は平良らに課した。気が遠くなるメニューからは、伊志嶺が昭和の色を濃厚に残した指導者であったことがうかがえる。

平良は普通の高校球児と少しちがっていた。
平良は中学時代、伊志嶺が創設した八重山ポニーズで捕手から投手になり、八重山商工に進むのは自然な流れだった。だが、平良は普通の高校球児と少しちがっていた。
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