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【日本男子フィギュアの歴史】都築章一郎が語ると佐野稔、長久保裕、そして羽生結弦「あれが出発点でした」《名伯楽インタビュー/2018年》
指導者としてリンクに立ち続けて55年。都築章一郎は、半世紀以上をフィギュアスケートのコーチとして歩んできた。
指導を手がけた選手はあまたいる。1972年の札幌五輪でペアに出場した長久保裕と長沢琴枝、'80年レークプラシッド五輪9位の五十嵐文男。'81年~'83年の世界選手権にシングルやペアで出場した無良隆志。'92年のアルベールビル五輪と'06年のトリノ五輪(このときはアメリカ代表)のペア、'94年のリレハンメル五輪にシングルで出場した井上怜奈……。そうそうたる顔ぶれが並ぶ。長期間にわたって数々の日本代表を生み出した経歴に、その存在の大きさが実感される。
なかでも'76年のインスブルック五輪9位、'77年の世界選手権で3位となり日本初のメダリストとなった佐野稔を育て上げたこと、羽生結弦の才能を見出し、その成長を促した“先生”であったことは、日本男子フィギュアの歴史の中でも特筆すべき功績だ。
フィギュアスケートが文化になるときが日本に来るのか。
今もなおリンクに立つ都築には、今日まで自身を衝き動かしてきた原点がある。
「あれが指導者としての、新たな出発点でした」
'69年のことである。佐野、そして教え子に加わっていた長久保裕が海外派遣されることになり、ソ連(現ロシア。以下ロシアと記す)のモスクワへ向かった。
現地では大会のみならず、練習を見学することも許された。大きな衝撃を受けた。
「間近で観るロシアの選手たちは、体つきも、表情やしぐさも、何もかもが洗練されていました。広いリンクを4人程度の選手が貸し切って練習していたり、フィギュアスケーターなのに、なぜかバレエの先生にレッスンを受けている。観ているうち、言葉は分からなくても練習方法がメソッドとして確立されていることも分かりました」
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