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「ジョーは“逆説的”な配球をしました」アメリカから見た“捕手の国”ニッポンとMLBの最新常識「データ野球は当時のファイターズでやっていたこと」

2025/06/06
プッツ(左)は2003年にマリナーズでメジャーデビューし、'06年に入団した城島とプレー
「捕手」と「キャッチャー」は似て非なるものだ。日米の野球に触れた3名のメジャー関係者に両国におけるその思考と役割の違いを聞いた。(原題:[現地レポート]アメリカから見た捕手の国ニッポン)

 メジャーで2003年から'14年まで主にクローザーとして活躍したJ・J・プッツは、通算189セーブのうちの21セーブ目を特によく覚えているという。

 それはシアトル・マリナーズにいた'06年6月16日のこと。本拠地でのサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で、5対4と1点リードの9回2死走者なし。マウンドのプッツが打席に迎えたのは、あのバリー・ボンズだった。ボンズはその日の第1打席で、通算718号本塁打を放っていた。

 フルカウントとなり、当時29歳のプッツは自慢の速球で力勝負を挑むことしか考えていなかった。ところが、捕手が出したサインはスプリットだった。プッツが首を振ると、捕手はまた同じサインを出した。何度も同じサインが出たため、プッツはいよいよ速球を諦めてスプリットを投げた。ボンズは手を出さず、見逃し三振で試合が終わった。マウンドを降り、捕手の城島健司とハイタッチを交わした。

 あれから20年近くが経ち、現在はアリゾナ・ダイヤモンドバックスの球団社長付特別補佐を務めているプッツは、あの日のことをこう振り返る。

「あれは私のプロ野球人生において、最も誇れる瞬間のひとつです。相手はのちにメジャー最多本塁打記録を作り、当時もすでに2位だったボンズ。右肘がホームベースにはみ出してくるほど身体が大きかった。1点差で、本拠地の満員のスタンドは大盛り上がりでした。その状況で力勝負を挑みたくなるのは、やっぱり投手のエゴでしょう。しかし、ジョーが考えていることは違いました。ボンズの頭にないスプリットで打ち取ろうと。私は3回も首を振りましたが、結局はジョーに従いました。ボンズは手を出さず、私はチームの勝利を守ることができました。沸き上がった球場の真ん中でジョーと喜びを分かち合えたのですから、ジョーのリードは正解だったんです」

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photograph by Getty Images

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