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[旋風から21年]近江高校「青きミラクルの炎は燃え尽きない」

2022/08/05
夏は過去5度の出場で2勝だった近江。'01年夏は初の大会2勝を挙げると前年夏ベスト4の光星、「夏将軍」松山商を下し決勝へ。日大三に敗れるも、県勢初の準優勝に輝いた
2001年、夏の準優勝を手繰り寄せた、3人の投手を次々繰り出す“三本の矢”。革新的な継投策は、印象的なブルーとともに彼らを象徴する色となり、今も薄れることなく琵琶湖のほとりに息づいている。

 青空をぼんやりと眺めていた多賀章仁の耳に、その言葉は心地よく流れてきた。

「高校野球の原点を教えてくれました」

 2001年夏の甲子園の閉会式。大会会長の朝日新聞社社長が、自分たちの戦いぶりを称賛していた。

「あの言葉は今でも忘れられないんです」

 それまで5度の出場でわずか2勝だった近江はあの年、滋賀県勢初の準優勝と湖国を沸かせた。その戦いぶりに心を震わせた者は多く、高校野球愛好家としても知られていた作詞家の阿久悠が、大会後にスポーツニッポン紙の連載で、『水色のほむら』と題した情緒的な詩を書いたほどだった。

 近江の野球が人を惹きつけたのはチームの真っすぐすぎるほどのプレーにあった。

「当時は小柄な選手が多くて、『なんで近江高校が決勝まで勝ち上がったんや?』ってみなさん思ったでしょうし、私もそうです。それが、まさか、まさかの快進撃」

 21年前の記憶を掘り起こし、多賀が笑う。スター選手がいるわけではない。当時の大会記録となるチーム打率4割2分7厘を叩き出して優勝した日大三のような破壊力もない。平均身長173.5cmの近江の選手たちは、ただひたむきに投げ、堅実に守り、愚直に攻めた。それが、「高校野球の原点」だと認められたのである。

 かといって、多賀が近江の監督になった1989年から、その「原点」を貫いてきたか、と問われればそうではない。

 当時の高校野球は絶対エース至上主義で、「勝利の方程式」という概念は皆無に等しかった。多賀自身、'00年以前にも春夏合わせてチームを5度の甲子園に導いているが、守りの立役者はいつもエースだった。

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photograph by KYODO

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