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「トイメン殺して俺も死ぬ!」東大ラグビー部の“狂気”…明治、早稲田に100点差で負け続けた男たちは、なぜ最後に笑ったのか?
 

text by

山川徹

山川徹Toru Yamakawa

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photograph byKeiji Ishikawa

posted2026/11/04 11:01

「トイメン殺して俺も死ぬ!」東大ラグビー部の“狂気”…明治、早稲田に100点差で負け続けた男たちは、なぜ最後に笑ったのか?<Number Web> photograph by Keiji Ishikawa

青春時代を過ごした東大ラグビー部のグラウンドで撮影に応じるブラインドラグビー日本代表ヘッドコーチの村田祐造(51歳)

 ラグビー選手としての村田の道を切り開いたのが、4年時の明治大戦だ。対抗戦の早稲田大戦は、0対105の大敗。明治大戦はその2週間後。分析担当だった村田は、早稲田大戦の敗因と明治大の戦力を分析し、対策を立てていた。

 当時の明治大は、日本代表として活躍した田中澄憲がキャプテン。プロレスラーに転身したKENSOこと、鈴木建三も4年生で、下級生にも日本代表になる選手が何人もいた。分析担当の村田の前にも、東大の先輩たちを毎年はね返してきた壁が立ちはだかった。

「いかに東大の強みを、明治の弱みにぶつけるか……いろいろと考えてみたんです。ですが、見事になにひとつ隙がなかった」

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 コーチは、20対40程度のスコアに持ち込む現実的な戦い方をした方がいいのではないかと提案した。それでも村田は悶々と考え続けた。論理的に突き詰めれば、勝つのは不可能だ。だが、諦めてしまったら、そこで終わり……。打開策は見つからない。暗い気持ちで部室を出た村田に、同期が声をかけた。

「どんな言葉だと思いますか?」と村田は問いかける。

 東大らしく「死ぬ気で戦え!」といった言葉だったのではないか。

「いえ、試合で死ぬ覚悟は、大前提ですから」と村田は苦笑いする。

 同期は自然な口調で村田にこう言った。

「祐造、次の明治戦、頑張れよ。応援してる」

 ありふれた一言が、村田の胸に刺さり、涙が止まらなくなった。

 村田は2年時からレギュラーとして試合に出場し続けた。一方、同じポジションのその同期は4年間で一度も公式戦に出場していなかった。

「申し訳ない気持ちがあったんです。出られない仲間たちを代表して試合に出ているのに、100点以上の差で負けてしまう。どうせ負けるなら自分が出たいという気持ちもあったはずです。それでも『頑張れよ。応援してる』と声をかけてくれたわけですから」

0-125の惨敗で得た充実感

 村田は吹っ切った。どんなにトライを取られても下を向くのではなく、試合に出られない選手たちが胸を張れるようなプレーをしよう。そう決めて、明治大戦の目標を立てた。

「1秒1秒チャレンジ、1秒1秒感謝」

 1997年10月4日。試合がはじまると面白いように村田のタックルが決まった。村田には明治大の選手の動きがスローモーションのように見えた。村田のタックルを受け、担架で運ばれる選手もいた。

「のちにスポーツ心理学で、フローと呼ばれることを知りました。いわゆるゾーンです。相手の強さは自分でコントロールできません。結果にとらわれ、20対40を目指すような精神状態だと、無我夢中になれないんです。だからこそ、結果はいったん脇に置いて、自分がやるべきこと、コントロールできることをひとつひとつやっていく。そのモチベーションとなるのが、利他の心……仲間への配慮です」

 仲間を思う気持ちから生まれた「1秒1秒チャレンジ、1秒1秒感謝」という目標が、村田をゾーンに誘ったのだ。

 ノーサイドのホイッスルが響いた。

 村田の周りを控えの選手たちが囲む。「祐造、スゴかった」「ナイスタックル!」……チームメイトたちは笑顔で村田の活躍を労った。ラグビーを心から楽しんだ村田は、スコアボードを見上げた。

 0対125。

 早稲田大戦以上の惨敗だった。それでも村田は充実感を覚えていた。仲間たちのために全力を尽くしたと思えたからだ。

 この試合でのプレーが三洋電機ラグビー部の関係者の目にとまり、村田は異色のキャリアを歩み出す。〈つづき→後編〉

#2に続く
「血が騒いだ」「目が見えないのに、どうやってラグビーを?」東大出身の異色ラガーマンが電撃就任…ブラインドラグビー日本代表監督の濃密な“159日

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