甲子園の風BACK NUMBER
春夏連覇で「天狗になっていた。社会人で鍛えられました」伝説の“延長18回”投げぬいた石井毅のいま「箕島と星稜の縁はほんまにありがたい」
posted2026/08/27 06:03
春夏連覇を果たした箕島から社会人、プロへと進んだエースの石井毅。星稜の好敵手たちとは今も縁が続いているという
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元永知宏Tomohiro Motonaga
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JIJI PRESS
「江川トレード事件」、「西武ライオンズ誕生」、「箕島高春夏連覇」、「江夏の21球」……このすべてが起きたのが1979年である。今にして思えば、日本野球界の新たな勢力図の兆し、そしてスポーツ文化の変容の萌芽がこの年に見えていたとも言える。1980年『Number』創刊の前年、日本野球界の地殻変動を関係者への取材で振り返る大型連載! 星稜との「史上最高の試合」を勝ち抜き、春夏連覇を遂げた箕島。彼らのその後はいかなる人生になっていったのだろう。〈連載『日本野球1979』第22回「箕島春夏連覇編」〉
浪商のエース・牛島和彦が中日ドラゴンズから1位指名、キャッチャーの香川伸行が南海ホークスから2位指名された1979(昭和54)年のドラフト会議。春夏連覇を果たした箕島からはショートの上野敬三が読売ジャイアンツから4位指名を受けた。しかし、石井毅(現・木村竹志)と嶋田宗彦のバッテリーは社会人野球の住友金属に進んだ。
「夏の和歌山大会の前に就職することが決まっていました。社会人野球もそうですけど、住友金属の野球部は厳しいと聞いていました。『箕島以上やぞ』と」(石井)
社会人野球の強豪での日々
和歌山市に本拠を置く住友金属野球団は、1965年と1966年に都市対抗野球で準優勝した社会人野球の強豪だ。1977年には全日本選手権で初優勝を飾っていた。
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「入るまでは社会人野球がどういうものかわかりませんでしたが、住友金属は泥臭い野球をするところだと聞いていました。監督は松永玲一さん。甲子園の試合ではテレビ解説をされていて、僕のピッチングをものすごくほめてくださった方です。当時、プロに行くということは考えていませんでした。目標は都市対抗野球に出て優勝すること」
それまで住友金属で主戦投手をつとめていたのは、1976年ドラフト会議でロッテオリオンズの1位指名を拒否して入社した森繁和だった。森は1978年ドラフト会議で1位指名を受け、1979年は西武ライオンズで先発・リリーフとフル回転していた。
石井にかかる期待は大きかった。

