甲子園の風BACK NUMBER
「小さな町で、近所の子どもが集まったような野球部」箕島はなぜ70年代屈指の強豪校になったか「尾藤公さんが監督になってすべてが始まった」
posted2026/08/26 17:02
今に至るも史上唯一の公立高校による春夏連覇の立役者である箕島高の石井毅。その生い立ちはいかなるものだったのか
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元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph by
JIJI PRESS
人口3万ほどの小さな町にある県立高校の野球部が、なぜ1970年代の高校野球で黄金時代を築くことができたのか。現在の強豪私立校のような豪華な設備も寮も整っておらず、また、県外から越境してくる野球留学生がいなかったのにもかかわらず。
箕島高校のある有田市は和歌山県の中部に位置する。1970年代の人口は35,000人ほどだった(現在の人口は23,727人)。100年を超える高校野球の歴史を見ても、人口10万人足らずの市から甲子園優勝校が出ることは稀だ(池田高校のある徳島県三好市の現在の人口は23,927人)。
近所のお兄さんの活躍で野球に興味を持った
エースとして箕島をけん引した石井毅に少年時代の話を聞こう。
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「尾藤公さんが箕島の監督になり、エースの東尾修さん(西武ライオンズなど)と初めて甲子園に出てから箕島の野球が始まりました」
のちに甲子園で35勝を挙げることになる尾藤は1942(昭和17)年生まれ。箕島の監督に就任したのは1966年だった。
23歳で監督になった尾藤が初めて甲子園の土を踏んだのは1968年春のこと。1970年春のセンバツではエースで四番の島本講平を中心に戦い、日本一にのぼりつめた。1961年生まれの石井は当時8歳だった。
「島本さんのチームに中谷正さんというキャッチャーがおられて、うちの近所に住んでいました。ある時、中谷さんのお宅に島本さんが遊びにきていたので、サインをもらったことがありました」
「近所のお兄ちゃん」の活躍を見て、石井は野球というスポーツに興味を持った。しかし、その頃、地域に野球チームは存在しなかった。

