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急逝から15年…今なお残る松田直樹18歳の記憶「中田英寿も凄かったが松田も凄かった」山本昌邦が明かす“松田が号泣した日”「特に直樹は凄い泣き方で…」
posted2026/08/15 12:00
2011年8月4日に急逝した松田直樹さん。15年を経た今、10代の頃から見守ってきた現JFA技術委員長の山本昌邦氏が松田さんの思い出を語る
text by

二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph by
Asami Enomoto
松田直樹、18歳の記憶
型破りなディフェンダー、松田直樹が天国に旅立ってはや15年が経つ。
先の北中米ワールドカップにおいて日本代表はラウンド32でブラジル代表と対戦し、先制しながらも後半に2点を奪われて敗れた。
ふと、あの試合が重なった。
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カタールで開催された1995年のワールドユース選手権(U―20ワールドカップ)。1979年の自国開催以外では初めて自力で出場を果たした日本はグループステージを2位で突破し、準々決勝でブラジルとぶつかった。今回と試合内容は違えども、同じように1-2で逆転負けして涙をのんだ。中田英寿とともに飛び級で1つ上の世代に入り、レギュラーとして活躍したのが18歳の松田であった。このときの経験がマイアミの奇跡につながった。
中田も凄かったが、松田も凄かった。
筆者は毎年8月に何かしらの形で彼のことをつづってきたが、「世代別代表の松田直樹」を描きたいと思った。1995年のワールドユース、翌年のアトランタオリンピック、そして2002年の日韓ワールドカップで代表チームのコーチを務め、松田の成長を間近で見てきた山本昌邦JFA技術委員長にインタビューした。
「世界と戦ってきた経験というのは自分の大きな財産になっている。国際舞台を経験できたから成長できた。ユース代表のとき山本さんに『世界を意識しろ』ってずっと言われたことによって、俺ははっきり意識するようになったから」
そう語っていた松田に世界というワードを授けて、高みを目指させたのが山本だった。
元日本代表ディフェンダーの山本は1987年に現役引退した後、指導者に転じて、ヤマハ発動機でのコーチを経てJFAのコーチングスタッフとしてオフトジャパンのスカウティング担当に就任していた。日本が出場していない1993年のワールドユースを田嶋幸三、西野朗とともに視察し、「世界は20歳でここまでやれるのか」と衝撃を受けた。
Jリーグが開幕したこの年に日本はU―17世界選手権(U―17ワールドカップ)を自国開催し、強化に力を入れたのが早生まれで入った松田たちの世代。彼がフォワードからディフェンダーへ転向したのも、代表チームを率いる小嶺忠敏が目を留めたのがきっかけだ。本大会での日本はジャンルイジ・ブッフォンのいるイタリアに引き分け、メキシコ戦ではセットプレーから松田が決勝点を奪って勝利してグループステージを突破している。準々決勝はヌワンコ・カヌのいるナイジェリアに敗れた。
松田直樹と山本昌邦の出会い
ワールドユースで衝撃を受けた山本と、世界の舞台を経験したU―17代表。次のワールドユースを目指すU―18代表に中田とともに飛び級で入ったのが松田であり、田中孝司監督の右腕としてコーチに就任したのが山本であった。彼は西野朗が監督を務めるアトランタ五輪出場目指す一つ上の代表コーチと兼任。松田にとって、山本の出会いは大きな意味を持つようになる。

