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急逝から15年…今なお残る松田直樹18歳の記憶「中田英寿も凄かったが松田も凄かった」山本昌邦が明かす“松田が号泣した日”「特に直樹は凄い泣き方で…」 

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二宮寿朗

二宮寿朗Toshio Ninomiya

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photograph byAsami Enomoto

posted2026/08/15 12:00

急逝から15年…今なお残る松田直樹18歳の記憶「中田英寿も凄かったが松田も凄かった」山本昌邦が明かす“松田が号泣した日”「特に直樹は凄い泣き方で…」<Number Web> photograph by Asami Enomoto

2011年8月4日に急逝した松田直樹さん。15年を経た今、10代の頃から見守ってきた現JFA技術委員長の山本昌邦氏が松田さんの思い出を語る

 山本の述懐。

「パススピード、シンキングスピード、フィジカルスピードを“スリーS”と呼んで、倍上げろと言ったら難しいだろうから、最低10%上げないと世界相手には通用しないって口を酸っぱくして言い続けました。よく覚えているのが、直樹が(中田)ヒデにシュートみたいなパスを出すんです。出し手のパスの質が悪いのに、2人で言い合いみたいになっていて“どっちが悪いんですか? これくらい止めなきゃダメですよね”って僕に言ってくる。そのくらいのスピードだぞって、2人がやり合いながらシュートみたいなパスの精度を高めていったことを思い出します」

 試合になると松田はボランチでも起用された。「いいセンターバックは、いいパスを出さなきゃいけない」との田中の方針のもと、世界との戦いを意識したものだったという。

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「自国開催以外で出たことのないワールドユースの舞台において、どうやって勝つのかといったら守備の安定は絶対的に重要。センターバックと一つ前の中盤でしっかりトライアングルをつくっておけば、対応がしやすくなりますから。360度見てプレーするという経験はセンターバックに戻したときに役立つとも考えたとは思います」 

「自分のミスで…」松田の号泣

 ワールドユース出場を懸け、松田も臨んだ1994年9月、インドネシアでのアジアユース選手権。日本は初戦のタイ戦で0-2といきなり敗戦スタートとなる。

 松田は気持ちが入りすぎたのか、相手に突破を許して先制点を与えるきっかけをつくってしまう。その後も個人的なミスが続いて、低調なパフォーマンスに終わった。

 自分のミスで負けてしまった――。

 試合を終えたロッカールームで選手たちは泣いていた。なかでもひときわ、声を上げて涙を流していたのが松田だった。

「“世界に行くぞ”を合言葉にして臨んだ初戦で負けて、特に直樹は凄い泣き方でした。我々は確か20本以上のシュートを浴びせましたが相手ゴールを割れずに、逆に相手には2本のシュートで決められてしまった。これだけ押しまくったら3点は獲らなきゃだめだろっていう話なんですけど、みんな少なからず重圧はあったと思うんです。でも初戦が終わったに過ぎない。どうやったらこの子たちに前を向かせて、元気づけられるだろうって僕も考えさせられました」

“ドーハの悲劇”オフト監督が放った「3 WIN」

 全体ミーティングでは戦術を落とし込むパートを山本が任されていた。翌日のミーティングで何を話そうと考えていると、「ドーハの悲劇」で知られる前年のアジア最終予選でハンス・オフトが選手たちに語った言葉が胸によぎった。

 山本は言う。

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