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「そりゃ中村敬斗だしな…」指導者が予言していたW杯での活躍…“少年時代の中村敬斗”いったい何がすごかった?「“育てた”なんて全く思わないです」

posted2026/06/20 11:16

 
「そりゃ中村敬斗だしな…」指導者が予言していたW杯での活躍…“少年時代の中村敬斗”いったい何がすごかった?「“育てた”なんて全く思わないです」<Number Web> photograph by Kaoru Watanabe/JMPA

日本代表の得点源として大きな期待を集める中村敬斗。少年時代の指導者はW杯での活躍を“予言”していた

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澤田将太

澤田将太Shota Sawada

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Kaoru Watanabe/JMPA

北中米W杯のオランダ戦でゴールを決め、一躍注目を集める中村敬斗(25歳)。日本代表の“新エース”として期待がかかる中村は、少年時代、いったいどんなプレーヤーだったのか。「多くの子どもを見てきたけど、彼は別格」。約半世紀にわたって指導の現場に携わり、幾人もの代表クラスの選手を見届けてきた野寄順三氏(81歳)に話を聞いた。(全2回の2回目/文中敬称略)

なぜ、多くの原石が集まるクラブに?

 明神智和、阿部勇樹、細谷真大、大橋祐紀――。数々のプロサッカー選手や日本代表を送り出してきた81歳の指導者・野寄順三が「後にも先にも見たことがない」と評する存在。それが中村敬斗だった。

 では野寄の目に、中村の何がそこまで特別に映ったのか。その答えを探るためには、まずは野寄自身の歩みから振り返る必要がある。

 野寄がサッカーの指導者として活動を始めたのは20代前半だった。当時、ピアノの調律師として東京で働き始めた野寄は、週末になると地元の静岡へと戻り、街クラブでプレーしつつ子どもたちにサッカーを教える生活を送っていた。

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 その後、30代で千葉県柏市へと移り住んだ野寄は、地域の子どもたちを集めて少年団を立ち上げ、本格的に育成の道へと足を踏み入れる。そんななかで出会ったのが、ブラジルから来日していたセルジオ越後だった。ストリートサッカーをルーツとした11人制にこだわらないセルジオの考え方に大きな影響を受け、野寄は自作のミニゴールを使った普及活動にのめり込んでいった。

「セルジオさんに意識を変えられたんです。『サッカーなんてゴールがなくても、どこでもできるじゃん』って。それなら人数が少なくても、少しのスペースしかなくても、幼稚園児にだってサッカーができるんじゃないか、ってね」

 1970年代に野寄が始めた幼稚園でのサッカースクールは口コミで千葉県内に広がり、最盛期には約2500人もの子どもたちが参加する一大組織へと成長を遂げることになる。1982年にイーグルス・ユナイテッド・FC TOR'82として法人化され、トップチームからジュニアまでを擁するクラブとなり、さらに柏レイソルとの業務提携を経て、2012年に柏レイソルA.A.TOR’82(以下、トーア)にクラブ名称が変更された。

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