甲子園の風BACK NUMBER
「白百合」初の共学化→入学者が激増していた…野球部監督に“佐々木朗希の恩師”、追い続けた記者が初めて聞いた「甲子園優勝を目指します」
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柳川悠二Yuji Yanagawa
photograph byAsami Enomoto
posted2026/04/26 11:02
2019年夏の岩手大会決勝。佐々木朗希の登板を回避させた試合後の國保陽平監督(当時32歳)
甲子園切符がかかった夏の岩手大会決勝で大エースにして4番打者だった佐々木朗希を試合に出場させなかったことが大騒動に発展して以降、批判の急先鋒だった私と國保は犬猿の仲だった。公式戦の試合後、記者が國保を囲むなか、私の質問にだけ答えないこともあったほどだ。
ところが1年が過ぎ、世間の興味が失われて記者が姿を消して以降も通い続けた私に、國保は少しずつ胸襟を開き、登板回避を決断した経緯も語ってくれた。数年を経るなかで、2019年には悲壮感すら漂っていた國保の表情が明るくなっていくのがわかった。
「やっぱり球界でも一握りとなる才能を壊しちゃいけないというプレッシャーが自分のなかにあったと思います」(國保)
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佐々木を出場させなかったあの日の決断が正しかったのか、あるいは間違っていたのか。7年の時間が経ってもその答えは出ない。ひとつだけはっきりしているのは、もう一度あの日に戻ったとしても、同じ決断をするということだけだ。
東京から岩手へ…何度も通った
千葉ロッテに入団した佐々木が3年目に完全試合を達成した時や、國保が盛岡第一に転勤になったタイミングでも、筆者は國保に会うために岩手に足を運んだ。電話取材には応じず、取材は公式戦の試合後に限られた。それが國保が自身に定めたルールだったのだ。
それゆえ國保に話を聞こうと思うと、必ず岩手に足を運ぶ必要があった。広大な岩手県でもとりわけ沿岸部は数日がかりになることもあったし、県庁所在地である盛岡市の盛岡第一に國保が異動したあとは東京からの移動の負担こそ減ったものの、ある時は修学旅行で、またある時はインフルエンザに罹患していて不在で、肩透かしにあったものだ。
公立高校の体育教師だった頃の國保は、かように良く言えば一本気、意地悪に言えば偏屈な変わり者。それが筆者の印象だった。
しかし、盛岡白百合の指揮官となり、花巻東とのセレモニーマッチを前に、挨拶に立った國保は「甲子園優勝を目指す」と宣言した。そういう大言は、大船渡時代には絶対に口にしなかった。

