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ヤクルト1年目に20ホールド…だが血行障害発覚「手術して感覚が」左キラーの最終登板は「家族に投げる姿を見せるため」のトライアウトだった

posted2026/03/26 06:01

 
ヤクルト1年目に20ホールド…だが血行障害発覚「手術して感覚が」左キラーの最終登板は「家族に投げる姿を見せるため」のトライアウトだった<Number Web> photograph by JIJI PRESS

ヤクルト時代、プロ初勝利を挙げた際の久古健太郎

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広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

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 プロ野球が華々しく迎える一方で、球界を去った選手の中には意外なセカンドキャリアを歩む人物もいる。元ヤクルトでデロイトトーマツコンサルティングを経てスポーツIT系企業に勤める久古健太郎氏(39歳)に話を聞いた。〈NumberWebインタビュー/全2回〉

 久古健太郎氏と言えば、ヤクルトの救援投手。左のサイドスロー投手として、試合後半の重要なシーンでマウンドに上がる救援投手だった。

 通算成績は228試合、8勝6敗2セーブ49ホールド、防御率4.20。

 2015年の優勝時には、中継ぎ投手として勝利に貢献。また引退後のユニークなセカンドキャリアでも話題を呼んだ。今回は、アマチュア時代、選手時代からじっくりと話を聞いた。

中学時代から根付いていた「自分で学ぶ姿勢」

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「小学校1年で野球をはじめ、そのころから投手でした。中学はリトルシニアで硬式野球をして、高校は国士舘高校に進みました」

——久古さんは高校2年の春に甲子園に出場しました。初戦の愛工大名電高戦で敗退しましたが、6回自責点1の好投で注目されました。そのころからプロ野球に進むことは考えていましたか?

「いえ、全然そうは思っていませんでした。体格も野球も平均よりちょっと上ぐらいな感じでしたね。ただ中学校のときは、週3回しか練習がなかったので、他の4日間をどう使うのかを常に考えていた。ランニングをしたり基本的な練習をするなど、自分でトレーニングすることを大事にしていました」

——「自分で学ぶ姿勢」は、すでに中学時代に根付いていたのですね。高校卒業後は青山学院大に進みました。

「一応セレクションで入ったのですが、声がかかったのではなく僕のほうから練習に参加させてもらいました。大学で投球練習をしたらたまたま調子が良くて、セレクションでも奇跡的にキャッチャーの構えたところにしかボールがいかなくて、自分でもびっくりするぐらいいい出来だったんです。それを見たコーチがいいなって言ってくれて受かりました。大学時代は救援から途中で先発になりました。僕は社会人1年目までずっと上から投げていたんです。プロ入り後とはイメージが違いますが」

日産休部→日本製紙石巻から声をかけていただいて

——卒業後に、日産自動車に入社が決まりますが、このタイミングで日産自動車野球部は休部が決まりました。

【次ページ】 入団2、3年で目が出なかったらクビになる

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