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「でも、それでいいんだ」“じつは苦節22年”加藤一二三が宝物にした升田幸三の助言「ヒャー! と奇声を…言葉の裏には」42歳で名人獲得ウラ話
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田丸昇Noboru Tamaru
photograph byaaa
posted2026/01/29 06:04
1969年の加藤一二三九段(当時29歳)。当時では珍しいカラー写真にて
「君の将棋は今、行き詰まっている。でも、それでいいんだ。中途半端に活躍するよりいい」
そして《潜龍》という文言を色紙に揮毫した。今は潜んでいるが、いずれ空に舞って活躍するという意味。激励された加藤は、その色紙を宝物にしたという。
名人戦敗退後、教会のミサで「いつの日か名人に」
加藤は1970年のクリスマスの日、都内のカトリック教会で洗礼を受けてクリスチャンになった。妻や子どもたちがすでに洗礼を受けていて、神父に「次はあなたの番ですね」と声をかけられた。クラシック音楽のバッハがもともと好きで、自然な成り行きだった。
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その後、以下のような考え方になり、将棋への迷いが吹っ切れたという。
「自分が精いっぱい考えた手を指せばいい」
信仰が深まることで、充実した将棋を指せるようになった。
1970年代に入ると、「将棋界の太陽」と呼ばれた若手棋士の中原誠が台頭してきた。そして、72年の名人戦で挑戦者の中原十段が大山名人を4勝3敗で破り、名人を24歳で獲得した。通算18期も名人を獲得した大山が敗れると、メディアは「巨星墜つ」と形容した。
そんな7歳年下の中原名人に対して、加藤八段が挑戦したのは73年の名人戦。新旧の天才同士の対戦として注目されたが、中原が4連勝で初防衛した。それでも名人戦の後、加藤は洗礼を受けた教会のミサで神秘的な経験をして、「いつの日か名人になれる」と確信したという。
加藤は中原との公式戦の対局で、1969年から76年の8年間で20連敗するほど苦手にしていた。しかし中原将棋を詳しく研究していくうちに、攻めが強い中原に「それ以上に鋭く攻める」ことを心がけると、自信をもって戦えるようになった。苦手意識は払拭され、棋王戦や王将戦で中原を打倒した。
計10局の大死闘…念願の名人に「ヒャー!」
そして迎えたのが、1982年の名人戦である。
名人位を9期連続で保持していた中原名人に、加藤九段が再挑戦する構図となった。その七番勝負は持将棋と千日手の無勝負を含めて3勝3敗の五分となる死闘で、10局目の最終局に持ち越された。
最終局の戦型は、両者の対局の定番である相矢倉。2日目に激しい攻め合いとなった。

