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日本人初の快挙「12秒台」を自信に世界最高峰に挑む村竹ラシッド。「愛される選手になりなさい」。恩師の言葉が支える日本ハードル界の希望
posted2025/09/01 11:00
text by

石井宏美Hiromi Ishii
photograph by
Takuya Sugiyama
昨夏、22歳の若武者が8月の世界大会の男子110mハードルで日本人初のファイナリストとなり、日本陸上界に新たな1ページを開いた。
「この世の終わりのような気分でした」
ほぼすべてのハードルに足が当たってしまい、しかも2台目、3台目のハードルは倒してしまった準決勝。村竹ラシッドは4位でゴール後、大きく肩を落とし、絶望的な気分で残り2組のレース終了をじっと待っていた。それゆえ決勝進出が決まったときは心底安堵した表情を浮かべた。
その決勝では5位入賞。男子短距離個人種目として日本勢過去最高の成績だ。
身長179cmはファイナリストの中では小柄に見えた。それでも、磨き続けてきた高い技術で滑らかなハードリングを見せた。高さ106.7cmのハードルを越えていく110mハードルは、身長差の不利が大きいと言われるが、そんな固定観念も村竹は打ち破った。
満足なき5位、わずか0.12秒差の悔しさ
かつて男子110mハードルが「世界から最も遠いスプリント種目」と言われていたことを考えると、この入賞がどれほどの快挙だったかが分かる。
ただ、村竹自身は実力を出し切っての5位に「ベストは尽くせた」と達成感は得ながらも、「負けているので」と満足はなかった。決勝のタイムは13秒21。3位のラシード・ブロードベル(ジャマイカ)との差はわずか0秒12だった。
近年、実力者がひしめき合い、群雄割拠の様相を呈している日本ハードル界。
そのトップに挑む23歳はいくつもの挫折を糧に世界のファイナリストまで登りつめた。順天堂大学4年時の2023年には日本インカレで13秒04の日本タイ記録を樹立し、以降、右肩上がりで成長を続ける。
「日本記録を出したときは最高潮のメンタルで大会を迎えられていました。100%、いや120%の力を出し切っての日本記録だったんですが、同じ順大生の応援など自分の力だけではない部分に助けられて。そこから2年近くが経ちましたが、まだその記録を越えられていないですからね……」
インタビュー当時(7月下旬)悔しそうな表情をのぞかせていたが、2025年もシーズンインから好調だ。
国際大会で培った動じない心
初戦のダイヤモンドリーグ厦門大会は13秒14で2位となり、世界選手権の参加標準記録(13秒27)を突破。昨夏の世界大会で5位入賞しているため、選考基準を満たし、早々に2大会ぶり2度目の世界選手権(今年9月/東京)の切符をつかんだ。
さらにその後のレースでも13秒10台を連発するなど、抜群のパフォーマンスを披露。何が安定感につながっているのだろうか。
「結局、強い選手でいるためには、悪天候でも隣のレーンが強い選手でも、どんな環境下においても動じずに自分のパフォーマンスをしっかり発揮することが求められます。今年はダイヤモンドリーグなどで世界の強豪選手と肩を並べてたくさん大会に出場していますが、そこでの経験がとても役に立っているし、その積み重ねが自信につながっていると感じています」
「敵であり味方」。村竹の軸を培った恩師からの教え
世界最高峰シリーズのダイヤモンドリーグなど世界を股にかける村竹だが、そんな彼に競技の楽しさや厳しさを教えてくれたのが、彼の原点でもある松戸市立第一中学校時代の恩師、高嶋美佳氏だ。
「もうめちゃくちゃ厳しくて。本当に朝から意味がわからないくらいよく走らされていたので、とんでもない人だと思っていました(笑)。小学校からずっと陸上をやっていますけど中学時代の練習が一番きつかったですね」
今だからこそそう笑えるが、当時は早朝から限界まで走らされた。筋力トレーニングも比較的多めで、「きついことをあげればきりがない」。
ただあの3年間の経験がトップ選手として活躍する今、生きているという。冬季練習や日々のきつい練習メニューを前にしても、「中学時代に比べたら大したことない」と、向き合える自信と勇気を培ってくれた。フィジカルや技術はもちろん、なによりも精神力を鍛え上げられたことを実感している。
あまりの練習の厳しさに、「当時は先生のことをめちゃくちゃ憎んでいました(笑)」と冗談まじりに話すが、「陸上とは何か、基礎の基礎を僕に叩きこんでくれたのは、間違いなく高嶋先生の教えがあったからこそ」と感謝してやまない。
「敵であり味方ですね。当時は僕にとっては敵でしたけど、試合でも練習でもきついときこそ、あのつらい経験を思い出して頑張れているので。今はその経験が、先生の存在そのものも含めて“味方”になっていると思いますね」
卒業して8年。今でもふと思い出す恩師の言葉がある。それが、今、村竹の軸にもなっている。
『愛される選手になりなさい』
練習をこなすことで精いっぱいで、当時はこの言葉の意味を考える余裕もなかった。年齢を重ねていくなかで、競技での活躍のみならず、人間性や言動も重要だということを悟った。
「今はしっかりと自分に染みついていますね」
近年は試合後にファンから声を掛けられる機会も多くなったが、ファンとの交流を大切にし、謙虚で誠実な姿勢で接する。なによりもファンとの交流を村竹自身が楽しみにしている。
日本人初の「12秒台」
そんな村竹がいよいよ大一番に挑む。
シーズン初戦で世界選手権内定を勝ち取った23歳は、しっかりと照準をメダル獲得に合わせ、突き進んできた。
最大のターゲットは日本人初の「12秒台」。5月のセイコーゴールデングランプリでは狙っていた記録を出せず悔しさが募ったが、その後も記録更新に闘志を燃やした。
「誰にも負けない自信はありますし、今季試合を積み重ねてきて手応えもあります。誰よりも早く12秒台を出したいし、そこはどうしても譲りたくないですね」
待望の12秒台は8月16日のナイトゲームズイン福井でいきなり飛び出した。今季世界2位となる12秒92は、昨夏の世界大会の優勝タイムも上回る驚異的な記録だ。しかも世界記録まで0秒12と肉薄。レース後は何度も力強く拳を握った。
課題は「あげたらきりがない」が、序盤のアプローチが重要になると考えている。
「序盤にハードルを当ててしまって今はスタートの勢いが削がれてしまっている。ハードルに当てずに、でもギリギリのところを狙ってロスなく越えていくことが大事ですね」
1991年以来34年ぶりとなる東京での世界選手権。日本での開催は2007年の大阪大会以来18年ぶりとなる。
日本人初のメダル獲得で国立競技場を、そして日本の陸上界をさらに盛り上げたいという熱い思いに加え、ハードル界を牽引するという責任感もある。
「さらに盛り上げるためには、まずは実績が必要だし、東京で行われる世界選手権は本当にうってつけの舞台だと思っています。そこでメダルを獲って、日本の陸上シーンってすごいんだよっていうところを、色々な人に伝えたいですね」
歴史の扉をこじ開けた23歳は、虎視眈々と、大胆不敵に、世界に、そして自分自身に挑み続ける。
村竹 ラシッドRachid Muratake
2002年2月6日生、千葉県出身。松戸市立第一中、松戸国際高を経て、順天堂大学に進学。2024年パリオリンピック陸上男子110mハードルで日本人として初めて決勝に進み5位入賞。2025年8月、ナイトゲームズイン福井で自身の持つ日本記録を0秒12更新する12秒92をマーク。JAL所属。179cm、78kg。
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