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「賛否両論あるとは思いますけど…」“NOAHのダークヒーロー”OZAWAにベテラン・丸藤正道の本音「もし俺が三沢さんに勝っていたら…」明かした後悔の理由

posted2025/07/16 17:00

 
「賛否両論あるとは思いますけど…」“NOAHのダークヒーロー”OZAWAにベテラン・丸藤正道の本音「もし俺が三沢さんに勝っていたら…」明かした後悔の理由<Number Web> photograph by Gantz Horie

インタビューに答える丸藤正道

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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Gantz Horie

旗揚げ25周年を迎え、盛り上がりを見せるプロレスリング・ノア。その中心人物として闘い続けるベテラン・丸藤正道が今明かす後悔、そしてOZAWAへの本音とは?《KENTA編に続く》

◆◆◆

 2000年7月に三沢光晴が旗揚げしたプロレスリング・ノア(NOAH)が、創立25周年を迎えた今年、ふたたび大きな盛り上がりを見せている。

 NOAHでは今年の元日に行われた日本武道館大会で、デビュー2年3カ月の“ダークヒーロー”OZAWAが若きエース・清宮海斗を破り、史上最短のキャリアでNOAHの最高峰GHCヘビー級王座を獲得してブレイク。

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 OZAWAによるNOAH道場の旧態依然とした体質や清宮のプライベートなど真偽不明な暴露を次々と行う危険な言動と、驚異的な身体能力から繰り出される華麗な技の数々は話題が話題を呼び、今年の“聖地”後楽園ホールでの興行は満員を連発。また、OZAWAの台頭により若手が活性化され、いま最も勢いがあるプロレス団体のひとつとなっている。

 そんな新たに生まれ変わりつつある現在のNOAHマットで、輝きを放ち続けているベテランが丸藤正道とKENTAというかつてのツートップだ。2000年の旗揚げメンバーとして三沢が率いた黎明期から黄金期、そして苦しい時代から現在まで知る両者に、NOAHと自身の25年を振り返ってもらった。

NOAHの“曲がり角”に登場した丸藤

 NOAHはもともと三沢光晴が、「自由と信念」を旗印に全日本プロレスから独立して設立した団体だ。全日本の創設者である故・ジャイアント馬場のプロレス観に縛られず時代に合わせた新基軸を打ち出しながら、プロレス本来の魅力を守り続けるその方針は、総合格闘技人気に押されていた2000年代初頭のプロレス界における救世主だった。

 そして2004年には東京ドームに初進出。5万8000人(主催者発表)の大観衆を集め成功を収めると、翌2005年も2度目の東京ドーム大会を開催。今度は、三沢vs川田利明、小橋建太vs佐々木健介などのビッグカードが話題を呼び、前年を上回る6万2000人を動員することに成功。こうしてNOAHは、当時格闘技路線で迷走中だった新日本プロレスを尻目に“業界の盟主”と呼ばれるようになった。

 しかし、その隆盛は長くは続かなかった。06年6月に当時のエースで人気絶頂だった小橋建太が腎臓がんによる長期欠場を強いられ、三沢も長年にわたる激闘と社長業の激務によりコンディションが悪化。他にも主力選手のケガ人が続出し、団体は大きな曲がり角を迎えた。

 そんな時に台頭してきたのが、まだ20代半ばでジュニアヘビー級のスター選手だった丸藤正道だ。丸藤は当時の心境をこう振り返る。

「あの頃はまだヘビー級とジュニアヘビー級には明確な違いがあって、自分にとってもヘビー級のトップ選手たちというのは本当に高くて厚い壁だったんですよ。でも、小橋さんが長期欠場となってNOAHの大きな柱が欠けていく状況の中で、自分もその柱の1本にならなきゃいけないと思うようになりましたね」

【次ページ】 ファンから手放しでは歓迎されなかった

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