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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「賛否両論あるとは思いますけど…」“NOAHのダークヒーロー”OZAWAにベテラン・丸藤正道の本音「もし俺が三沢さんに勝っていたら…」明かした後悔の理由
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堀江ガンツGantz Horie
photograph byGantz Horie
posted2025/07/16 17:00

インタビューに答える丸藤正道
ファンから手放しでは歓迎されなかった
丸藤は06年3月の日本武道館大会で“四天王”の一角だった田上明からピンフォール勝ちを奪うと、その勢いのまま9月の武道館ではGHCヘビー級王座に初挑戦。王者・秋山準を完璧首固めで下し、見事、NOAHの最高峰王座を奪取した。
今でこそジュニアヘビー級の体格のレスラーが、メジャー団体のトップに立つことは国内外で珍しくなくなったが、当時としてはきわめて異例なこと。そのため、丸藤の快挙もファンから手放しでは歓迎されなかった。
「あの頃はまだ『プロレスの醍醐味は大きな選手同士のぶつかり合いだ』という風潮まだまだあって、僕のところにもファンや関係者も含めたそういう声がめちゃくちゃ聞こえてきたんですよ。ただ、そんな中でも自分にGHC挑戦のチャンスを与えてくれた会社は、僕に現状打開を期待し、何かを変えようと賭けに出てくれたと思うので、自分としては否定されようが『無理だ』と言われようが、自分を信じてやるだけでしたね」
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GHCヘビー級王座初戴冠の翌月、丸藤は初防衛戦の相手として自分と同じジュニアヘビー級の体格で後輩のKENTAを指名。史上初となるジュニアヘビー級同士によるGHCヘビー級タイトル戦は、未来を先取りしたかのようなハイレベルな激闘となり、丸藤が初公開のポールシフトで勝利。この一戦は同年の「プロレス大賞」年間最高試合賞に選ばれ、NOAHに新時代到来を感じさせたが、結果的に時代を完全に変えることはできなかった。12・10日本武道館で行われた2度目の防衛戦で丸藤は三沢光晴に敗れ王座から陥落。ヘビーとジュニアの壁をぶち破った丸藤の革命は、わずか3カ月で収束してしまったのだ。
「もし俺が三沢さんに勝っていたら…」明かした悔恨の念
当時のNOAHでGHCヘビー級王者になるということは、2カ月に一度のハイペースで開催されていた日本武道館大会を満員にできる動員力と、さらに現在より遥かに数多く行われていた地方興行での知名度の両方が求められた。三沢のGHC王座再登板は、未来への投資より減少する観客数にまずは歯止めをかけなければいけないという会社判断もあっただろう。しかし、これによって世代交代がうまく進まず、40代半ばと全盛期を過ぎ満身創痍だった三沢が無理を押してメインのリングに上がり続ける中で、09年6月にあのリング禍が起こってしまった。
それだけに丸藤には、三沢の存命中に世代交代ができなかったことへの悔恨の念がいまもある。
「俺がGHCヘビー級王者になったとき、3カ月で三沢さんに負けて、三沢さんがまたチャンピオンとしてやっていかなきゃいけなくなった。『もし、あそこで俺が三沢さんにしっかり勝って、団体を引っ張っていけていたら違う形になっていたんじゃないか』と思うことはありますね。
チャンピオンになってからは『自分に期待される以上の試合を見せよう』という思いで闘っていたんですけど、当時の三沢さんや小橋さんを始めとする上の選手たちはファンの人たちから神レベルで崇められていたので。知名度であったり、総合的な実力でまだ差があっても、それをどうにか埋めて追いつく追い越すみたいな気持ちではいましたけど、結果叶わなかったという。
ただ、それでももっと俺が我を貫き通していければ、そういった序列や認識を変えていくことはできたかもしれないけれど、突っ走りきれなかった。だから、自分にとってもNOAHという団体にとっても2006年というのは一つの分岐点ではあったと思うんですけど、三沢さんは常日頃から『たら・ればというものはない』と言っていたので、後ろは振り返らずにやっていくしかなかったですね」