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「野茂のフォークは邪魔やったよね」当時MLB最強投手を打ち砕いた“メジャーに最も近かった男”佐々木誠が見た「近鉄の野茂英雄」の凄さとは? 

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喜瀬雅則

喜瀬雅則Masanori Kise

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photograph byMasato Daito

posted2025/06/27 11:00

「野茂のフォークは邪魔やったよね」当時MLB最強投手を打ち砕いた“メジャーに最も近かった男”佐々木誠が見た「近鉄の野茂英雄」の凄さとは?<Number Web> photograph by Masato Daito

日本での野茂の投球を、ライバルの強打者たちはどう見ていたのか……今だからこそ「攻略法」を聞いた

 南海、ダイエー、西武、さらに阪神と渡り歩いた佐々木の日本現役生活は17年。通算1599安打、ベストナイン6回、ゴールデングラブ賞も4回。2001年に米独立リーグでプレーした後に現役引退すると、社会人のセガサミー、NTT西日本で監督を務め、2017年には古巣・ソフトバンクの3軍監督。2018年からは鹿児島城西高の監督に就任し、コロナ禍で開催中止という悲運に見舞われたものの、2020年には同校を初のセンバツ出場に導いている。

 2023年限りで鹿児島城西高監督を退任後、佐々木は神戸に居を移し、2024年7月から、神戸市兵庫区に「佐々木誠の野球教室」を開校。小・中学生を対象としたマンツーマン指導は、開校からおよそ1年で30選手が通っているという人気ぶりでもある。

 未来のプロ野球選手を情熱たっぷりに育てているその“虎の穴”へ、佐々木を訪ねた。

日米野球で見せた真価

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 少々、佐々木の紹介で時代が行ったり来たりするが、ここでは佐々木のプロ5年目、1988年に戻って、話を進めていきたい。

 87年に125試合出場、打率.288、11本塁打、15盗塁。翌88年は97試合出場、打率.284、16本塁打、13盗塁をマーク。それでも、当時は「実力のパ、人気のセ」。パの好選手は、野球通以外にはなかなか日の目を見ない時代でもあった。そんな“隠れた逸材”とも言える存在の一人だった佐々木が、その秘めた能力を日本中に、さらにはメジャーにも発信したのは、88年秋に開催された「日米野球」でのことだった。

 88年は、南海のラストイヤーだった。大手スーパーを全国展開していた小売業の雄・ダイエーに球団買収され、平成の新時代に変わる89年から、本拠地が大阪から博多へと移ることも決まっていた。その渦中にもかかわらず、23歳の佐々木は、新たなフランチャイズとなる平和台球場で、それこそご挨拶代わりの一発を放つのだ。

【次ページ】 「ドクター・O」からの一撃

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