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マスクの窓から野球を見ればBACK NUMBER
「素質なら長嶋茂雄以上」は本当…? 当時のヤクルト「メジャーでやれたのは一茂だけ」《ドラ1指名》元スカウト部長が語った長嶋一茂“リアル評”
posted2025/06/16 11:00

立教大時代の長嶋一茂。特に4年時のリーグ戦では好成績を残し、1987年のドラフトでヤクルトと大洋から1位指名を受けた
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安倍昌彦Masahiko Abe
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AFLO
逝去以降、数々の秘話が語られている長嶋茂雄。氏の長男で、現在は芸能界で活躍する一茂氏は、方々で「素質だけなら父以上だった」との逸話が語られている。では、実際のドラフトで1位指名を決断したヤクルトのスカウト部長は、“野球選手・長嶋一茂”にどんな評価を下していたのだろうか。《NumberWebインタビュー全2回の1回目/つづきを読む》
1987年のドラフト会議で、横浜大洋(現・横浜DeNA)との競合・抽選の末、立教大・長嶋一茂内野手を引き当てて「ウワーッ、困った!」と頭を抱えたというヤクルト・片岡宏雄スカウト部長(当時)。
立教大野球部で父・長嶋茂雄三塁手の1年後輩としてレギュラーマスクをつとめていた人だ。
のちに南海ホークス(現・ソフトバンクホークス)の大エースとして年間で最高38勝をマークした伝説のアンダーハンド・杉浦忠投手とバッテリーを組み、魔球と怖れられた「お化けカーブ」で杉浦投手が三振を奪うと、捕球したそのボールを長嶋三塁手に転送し、ボール回しを始めてもらう……片岡さんとは立教大時代、そういうことをしていた人なのである。
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そんな立教大黄金時代のレギュラーマスクを4年間全うしたほどの片岡捕手なのだから、当然、プロ野球からの評価も高かった。
長嶋茂雄選手が読売ジャイアンツに進んだ翌年、大きな期待と大きな契約金を背負って、片岡捕手は中日ドラゴンズに入団することになる。
「最初っから通用せえへんと思ってたからな、プロなんか。細いし、打てへんし、肩も痛いし……あかんかったら、新聞のほうで働かしてもらおう思ってな」