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あの広島ドラ1「先発→抑え→先発」1年間でビックリ配置転換…佐々岡真司が語る“こんなに違った”野球界の常識「無茶なことしてるな、浩二さん(笑)」 

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中島大輔

中島大輔Daisuke Nakajima

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photograph byL)Tadashi Hosoda、R)KYODO

posted2025/05/29 11:03

あの広島ドラ1「先発→抑え→先発」1年間でビックリ配置転換…佐々岡真司が語る“こんなに違った”野球界の常識「無茶なことしてるな、浩二さん(笑)」<Number Web> photograph by L)Tadashi Hosoda、R)KYODO

現役引退後は広島の監督も務めた佐々岡真司さん。現在は女子野球・三次ブラックパールズのGMを務めている

当時の抑えは“回またぎも当たり前”だった

 現代のクローザーは基本的に9回限定、イニングの頭から登板するケースが多い一方、当時の抑えは回またぎや複数イニングを投げるのも普通だった。

 その意味で、佐々岡が5月27日のヤクルト戦から記録した連続セーブポイントの日本記録は“勲章”と言えるだろう。

「当時は延長15イニング制で、9回から15回まで投げたこともあります。2、3イニング投げて、次の日も1イニング投げることもあった時代です。試合の途中から行くと、最後まで投げるという気持ちでした。それが当たり前だと思っていたので、しんどいと感じることはなかったですね」

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 セーブポイント(SP)はセーブと救援勝利の数を合計したもので、1976年から2004年まで公式記録として扱われた。翌2005年、中継ぎ投手を評価する指標として導入されたのがホールドポイントだ。交流戦が始まったこの頃には、リリーフ投手の分業制が確立されていた。

 裏返せばSPが存在した頃の抑えは、現在のクローザー&セットアッパーの役割を一身で担っていたという面もある。

“17連続SP”を達成したウラ側

 6月24日の大洋戦で連続SPを10に伸ばした佐々岡はその後、登板間隔が10日以上開いた。角盈男(巨人)、郭源治(中日)、津田、武田一浩(日本ハム)の持つ12連続SPの日本記録が近づくと、山本監督は同点や4点以上のリードでは投げさせないなど、記録達成に配慮したからだ。

 中11日で7月5日に11連続SP、中13日で同18日に12連続SPを達成。オールスターをはさんで同31日、4点差の8回から2イニングを自責点0で抑えて13連続SPの新記録を樹立した。

「当時の日本記録で名前が残るのはすごくうれしかったし、励みにもなりました。1年目からこういう記録をつくれたという自信と、こんなにうまくいっていいのかなと不思議な気持ちでした」

 8月5、7、8、10日に登板して17連続SPまで更新。そして同12日、広島市民球場での阪神戦で4対1の8回から北別府の後を受けてマウンドに登ると、1死から四球や重盗、タイムリー、八木裕の2ランなどで5点を奪われ、記録はついに途絶えた。

「ずっと成功していた中で失敗して、今までの記録が無になるんじゃないかというくらいショックでした。それだけ抑えの失敗はきつかった」

 それまで佐々岡はチーム最多の31試合に登板。さらに1990年8月の広島は平均気温29.2度と、前年(27.4度)や翌年(27.7度)と比べて「異常な暑さ」(当時の朝日新聞)と言われた。

 8月14、15日の中日戦でいずれもリリーフで打たれると、山本監督は仰天の起用に出た。同23日の巨人戦で、5月5日以来となる先発に戻したのだ。

【次ページ】 まさか…“先発に再転向”の真相

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