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「原巨人、野村ヤクルトと同等の黄金期」落合中日が作った“現代プロ野球戦術の礎”とは「岩瀬仁紀と浅尾拓也、アライバが象徴だった」 

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広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

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photograph byNaoya Sanuki

posted2025/05/31 17:02

「原巨人、野村ヤクルトと同等の黄金期」落合中日が作った“現代プロ野球戦術の礎”とは「岩瀬仁紀と浅尾拓也、アライバが象徴だった」<Number Web> photograph by Naoya Sanuki

計4回のリーグ制覇を成し遂げた落合博満監督時代の中日。現代野球にも大きな影響を与えた戦術とは

 巨人のV9が圧倒的ではある。次いで森監督の西武も9年間で8回優勝。勝率も6割を超える。次に原監督の巨人、そして落合中日ときて、古葉監督の広島、野村ヤクルトとなる。これらの監督は、いずれも現役時代から名選手だったが、指揮官になってから「一時代」を築いたことがわかる。全員が野球殿堂入りしている。

 まとめてみて再認識したが――巨人・原監督と、中日・落合監督は2年違いで「黄金時代」が重なっている。前述したようにこの期間、中日の優勝時に巨人が2位になったことはない。巨人優勝時には2007年、2009年と中日が2位だった。それでもこの2チームによるせめぎ合いが、当時のセ・リーグのペナントレース最大の焦点だった。そういう意味でも「巨人-中日」を「伝統の一戦」に加えるのは、妥当ではないか、と改めて認識した次第だ。

岩瀬と浅尾が象徴する鉄壁リリーフ陣

 落合中日の8年間には、その後のプロ野球の戦術に大きな影響を与えるような選手起用がいくつかあった。

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〈絶対的な左腕クローザー〉

 中日はNPBの「救援投手の先進チーム」だった。古くは巨人V9時代に救援で3年連続2けた勝利を挙げた板東英二、抑えのパイオニア星野仙一、そして鈴木孝政、快速球の牛島和彦と継承されていった。そうした救援投手の「最終形」ともいえるのが、NTT東海から1998年ドラフト2位(逆指名)で入団した岩瀬仁紀。落合中日の絶対的左腕クローザーだった。

 NPB記録の1002試合に登板、先発は1試合だけ。1001試合救援のマウンドに立ち、これもNPB記録の407セーブ。岩瀬は、落合中日の8年間がまさに全盛期で、最多セーブ4回、40セーブ以上5回。ナチュラルに変化するムービングファストボールを武器とし、岩瀬がマウンドに上がれば、相手チームからはあきらめのため息が出た。25年には野球殿堂入りを果たしている。

〈MVPを獲得した唯一のセットアッパー〉

 NPBが「ホールド」を公式記録にしたのは2005年のことだった。ホールドとは、先発投手とクローザーの間に登板し、味方のリードを守ったまま後続につないだ投手に与えられる。ホールドシチュエーションでもっぱら投げる投手をセットアッパーという。

 2007年、日本福祉大から大学生・社会人3巡目で入団した浅尾拓也は2年目から、セットアッパーとして活躍した。

 2009年には33ホールド、10年47ホールド、11年45ホールドで2年連続最優秀中継ぎ投手に。そして落合中日最終年の11年は、中継ぎ投手として史上初のMVPに輝いた。実は、史上最多セーブの岩瀬でさえMVPは獲得していない。11年の浅尾の防御率は驚異的な0.41。岩瀬と共に絶対的な「勝利の方程式」を築いたと言えよう。

アライバコンビのスゴさを象徴する「11年」

〈アライバコンビ〉

 クローザーの岩瀬仁紀、セットアッパーの浅尾拓也とともに、落合中日の象徴となったのが「アライバコンビ」だった。

【次ページ】 アライバコンビのスゴさを象徴する「11年」

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